呉の名将・陸遜の栄光と悲劇の生涯がドラマチックすぎる件


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陸遜

 

陸遜(りくそん)()(222年~280年)の丞相です。呉郡の四姓(陸・顧・朱・張)の1つ陸氏の出身でした。

孫策(そんさく)の娘を娶っているので、孫権(そんけん)とは親戚関係です。

 

しかし、陸遜の生涯は栄光と悲劇に包まれています。

今回は呉の丞相(じょうしょう
)
の陸遜について解説いたします。

 

自称・皇帝
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一族滅亡の危機

 

陸遜は呉郡の名門の陸氏の出身でした。

呉郡には陸・顧・朱・張という有力な一族がいて、「呉郡の四姓」と呼ばれていました。

 

呉の勢力を率いる孫策

 

ところで、この四姓と対立した人物がいました。孫策(そんさく)でした。

 

孫策はかつて、陸氏の陸康(りくこう)に面会した時に直接会ってもらえなかったことから陸氏に対して個人的な恨みを持っていました。また、陸氏も孫策をただの成り上がり者としか見ておらず、馬鹿にしていました。

 


 

陸氏を壊滅に追い込む小覇王・孫策

イケメン孫策と袁術

 

興平2年(195年)に袁術(えんじゅつ)は陸氏と関係が悪化したので、孫策に攻撃を命じました。孫策は容赦なく攻撃して、陸氏をほぼ壊滅に追い込みました。

 

この時、陸遜は逃げて生き残ることに成功しました。

 

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呉の武将


 

孫権の親戚となる陸遜

朝まで三国志2017表情 陸遜03 怒

 

建安5年(200年)に孫策は暗殺されました。孫策は陸氏を壊滅状態に追い込んだので、朱氏・顧氏・張氏からも評判が悪かったのです。

 

曹操(そうそう)の参謀の郭嘉(かくか)は生前にこんなことを言っていました。(訳は現代の人に分かりやすくしています)

 

郭嘉

 

「孫策が殺したのは地元の有名人ばかりです。彼はきっと、つまらない人間の手にかかって死にます」

 

郭嘉の予言は見事に的中したのです。後を継いだ弟の孫権(そんけん)が努めたことは呉郡の四姓との関係修復でした。

 

周瑜

 

これには周瑜(しゅうゆ)の力が必要でした。周瑜は揚州(ようしゅう)でも屈指の有力者であり一族は中央政界でも活躍していました。現代で例えるのなら国会議員レベルです。一方、呉郡の四姓の人は狭い地域でしか活躍出来ない人ばかりです。現代で例えるのなら、市議会・県会議員レベルです。

 


  

 

 

呉郡の四姓との関係修復に努める孫権

陸遜と孫権

 

孫権は周瑜の力を借りて、呉郡の四姓との関係修復に努めました。陸遜はそんな時に孫権のもとに出仕しました。

 

孫権は陸遜と和解するために孫策の娘を与えました。和解の象徴の意もあるが、裏を返せば陸遜が孫権と親族関係になるほど孫氏の勢力は拡大して侮れないもになっていたのである。

 

関羽を討つ陸遜

曹仁

 

建安24年(219年)に(しょく)(221年~263年)の関羽(かんう)が、()(220年~265年)の曹仁(そうじん)を攻撃しました。関羽が出兵したので彼が守っている荊州(けいしゅう)は兵士が、ほとんどいません。

 

呂蒙

 

軍の総司令官の呂蒙(りょもう)は、荊州に攻め込みたいのですが上手な策が出ません。そんな時に、陸遜が「自分を代理の司令官」にすることを言いました。呂蒙が理由を尋ねると陸遜は答えました。

 

関羽に手紙を送る陸遜

 

「関羽は傲慢な性格なので、自分より格下は侮ります。無名の私を司令官にすれば、油断して曹仁ばかりを攻撃するはずです。その隙に、荊州を奪うのです」

 

納得した呂蒙は、その策を実行しました。

見事に策は的中して荊州も奪取するだけではなく、関羽も討つことに成功しました。

 

夷陵の戦いで勝利する名将・陸遜

ブチギレる劉備

 

魏の黄初3年(222年)に蜀が関羽の仇討ちとして呉に攻め込みました。

 

陸遜

 

この時に総司令官として抜擢されたのが陸遜です。

 

徐盛(じょせい)呉の将軍

徐盛(じょせい)呉の将軍

 

しかし、当時の呉にはまだ韓当(かんとう)朱然(しゅぜん)徐盛(じょせい)などの古参の部下がそろっていました。

 

彼らは陸遜を「孫権の親族」という目線でしか見ておらず、勝手な振る舞いが多かったそうです。

 

陸遜

 

陸遜は蜀の挑発には一切乗らずに火計で撃退しました。

これには陸遜を馬鹿にしていた将軍たちも、彼の思慮深さに恐れ入ったと言われています。

 

晩年が悲惨すぎる名将・陸遜と二宮事件

孫権の跡継ぎ9歳の孫亮

 

呉の赤烏4年(241年)に孫権の皇太子の孫登(そんとう)が亡くなりました。

孫和(そんか)が新しい皇太子になりました。しかし、孫和の母の(おう)氏と孫権の娘の(ぜん)公主は非常に仲が悪かったのです。

 

この2人の女の争いに孫権が口を出して、娘の全公主の肩を持ってやるのです。

 

男親は娘に弱いものです・・・・・・結果、王氏は朝廷から追放されました。

また、孫権も皇太子の孫和に対して愛情が失せました。

 

この時に、孫和の異母弟の孫覇(そんは)が皇太子の座を狙ったのです。部下も孫和派と孫覇派で真っ二つになりました。

 

この事件を「二宮事件」と言います。この事件で孫権が下した決断は皇太子の孫和を廃して、孫覇を殺すことでした。

要するに喧嘩両成敗です。

 

少しやりすぎですね・・・・・・

 

この事件に陸遜は関わっていなかったのですが、甥が関わっていたと言いがかりを付けられました。

その結果、流刑にされました。

 

責められる陸遜

 

だが、これで終わりではありません。

孫権は使者を派遣して、徹底的に陸遜を責めました。

 

孫権に煽られて憤死する陸遜

 

精神的に参った陸遜は遂に憤死しました。

享年63歳でした。

 

三国志ライター 晃の独り言

晃(あきら)akira

 

陸遜は一族が壊滅的打撃を受けながらも見事に復興を果たして、丞相という最高の地位にまで上りました。

しかし晩年は、冤罪で命を落とすという悲惨な結末です。

 

孫権は名君であることは間違いないのですが、つまらない武人は重用して、必要な人材と衝突することが晩年には多かったのです。

それだけ彼も年老いたということでしょう。

 

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