趙雲は蜀(221年~263年)の将軍です。公孫瓚に従軍していましたが、その時に知り合った劉備についていき亡くなるまで戦います。趙雲は正史『三国志』において、非常に事績が少ない人物なのです。
それはどういうことなのでしょうか?
実は一般に浸透している趙雲の事績のほとんどが、劉宋(420年~479年)の歴史家である裴松之が正史『三国志』に記した注なのです。そこで今回は正史『三国志』で陳寿が記した趙雲の事績にまとをしぼって解説しようと思います。
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公孫瓚配下から劉備配下となる
趙雲は袁紹が統治している冀州常山郡真定県の出身ですが、公孫瓚の配下となります。公孫瓚の配下となった経緯について陳寿は何も記していません。
劉備との出会いについては、公孫瓚配下の田階が袁紹に攻められた時です。趙雲はその時、劉備と一緒に援軍として派遣されて以降は劉備の配下となります。初平3年(192年)頃です。
長坂で劉禅と甘夫人を助ける
建安13年(208年)に荊州の長官の劉表が亡くなったことを契機に、曹操は荊州と呉を併呑しようと計画します。劉表の後を継いだ劉琮は一戦も交えずに降伏したので、劉備は民を連れて慌てて逃げだします。
ところが、長坂で追いつかれてしまい戦闘になります。逃げることに精一杯だった劉備は劉禅・娘2人・妻の甘夫人を見捨てました。一方趙雲は、乱戦の中で劉禅と甘夫人を救出して逃げ延びることに成功します。
リアル「三国無双」全開!!趙雲はこの時の功績により、「牙門将軍」に任命されました。牙門将軍というのは位の低い将軍号です。趙雲の将軍としての人生は、この時から始まります。
関羽の存在で出世が出来なかった趙雲?
その後、蜀平定の功績により、「翊軍将軍」となります。残念ながら、これも位の低い将軍号であり趙雲は働きの割には、あまり出世していません。理由は関羽にあったと思われます。
関羽はプライドが高くて、蜀平定時期に加入した馬超がどんな人物か気になって諸葛亮に手紙で尋ねます。この時に諸葛亮は関羽のプライドを傷つけないように、「馬超は関羽さんには及びません」と大人の対応の返事をしました。喜んだ関羽はその返信の手紙をみんなに見せびらかしたそうです。
また、黄忠を三品官の「後将軍」に任命する時も、関羽が納得しない可能性が高いと諸葛亮は察して、劉備自ら関羽を説得した話もあります。このように趙雲が功績を立てても出世が出来なかったのは関羽の存在が大きかったからでしょう。
おそらく趙雲自身も遠慮していたのではないでしょうか・・・・・・
劉備が亡くなり劉禅が即位した建興元年(223年)に、趙雲は「征南将軍」さらに「鎮東将軍」に昇進します。これらは二品官の将軍号であり、方面軍の司令官という役割を持っています。
建興元年(223年)と言えば劉備・関羽・張飛・馬超・黄忠といった蜀創業の人々は、すでに鬼籍に入られています。残っているのも趙雲・劉琰・諸葛亮・魏延・蔣琬・・・・・・・・メジャーからマニアックな人々ばかり。
趙雲は残っている中でもかなりの古株なので自然と昇進しました。時間はかかったけど、ようやく長年の努力が報われたのです。趙雲はまさに、典型的サラリーマンと筆者は思います。
北伐で敗北して降格
建興6年(228年)に諸葛亮は魏(220年~265年)に最初の北伐を開始します。趙雲は鄧芝と一緒に出陣して、魏の曹真を迎え撃ちます。ところが、蜀の先鋒の馬謖が街亭で敗北したので北伐は失敗しました。
趙雲も曹真に負けますが、彼は軍をしっかりとまとめて大敗せずに引き返しました。これぞ歴戦の勇者!長年の経験です!
この戦で馬謖は敗戦の罪を問われ処刑となりますが、趙雲は降格処分だけで済みました。趙雲がその後、戦に出ることはありません。街亭の戦いの翌年、建興7(229年)に趙雲はこの世を去りました。
三国志ライター 晃の独り言
今回、趙雲の出世話の話を出したのかというと、筆者を大学時代の恩師が、「趙雲が出世出来なかったのは、劉備に好かれていなかったからだよ」と言っていたことを記憶していたからです。
その恩師は「劉備の時代は大したレベルでもない将軍職だったのに、劉禅の時代になると急に出世しているから変でしょう」と笑いながら言ってました。
今回、調べて上記の結論に達しました。
これが恩師に読まれないことを祈ります(笑)
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