顔良は後漢(25年~220年)末期の将軍です。袁紹配下の猛将として有名であり、建安5年(200年)の白馬の戦いで曹操軍と戦いました。
しかし当時、曹操の客将だった関羽に敗れて討ち死にする最期をとげます。顔良は小説『三国志演義』では一騎当千の人物として描かれていますが、史実の彼は史料が少なくその人物像が把握しずらいです。
そこで今回は史実と小説両面から顔良について解説してみようと思います。
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小説『三国志演義』での活躍
まずは小説からスタート!顔良は建安5年(200年)に白馬の戦いで先鋒を務めます。
この時、あまりの強さに曹操軍は苦しめられました。曹操軍からは元・呂布配下の宋憲が挑みますがすぐに討たれます。宋憲が死ぬとやはり元・呂布配下の魏続が顔良と闘いますが瞬殺!
2人のあっけない最期はおそらく主人であった呂布を裏切って投降した天罰であると『三国志演義』の著者の羅貫中は言いたいのでしょう。話が脱線したので戻します。
曹操軍からは徐晃が参戦!これで勝ったも同然・・・・・・にはなりません。なんと徐晃まで顔良に敗北して逃げ帰る始末!
さすがの曹操も旗色が悪くなったので、1人の男に出陣をお願いします。それは関羽でした。関羽は当時、曹操に敗北して投降していました。もちろん真からの投降ではありません。
劉備の妻の保護と失踪した劉備の消息が判明したらすぐに立ち去ること条件に付けていました。一方、関羽もさすがに条件だけを押し付けることは気が引けたのか手柄を立てて立ち去ろうと考えます。その話を聞いた曹操は感心しましたが、関羽を手放すことを惜しく思います。
顔良に対しての苦戦はそんな時でした。曹操当初、関羽を出陣させることに躊躇しますが、関羽が敗北すれば大した男ではなかったと踏ん切りを付けれると考えを改めます。さて、出陣した関羽は顔良に立ち向かっていきます。
負けじと顔良も応戦。勝負の結果は、関羽の青龍偃月刀の一撃で顔良はあっけなく討たれます。あれだけ曹操軍を苦戦させていた顔良はどこに行ったのやら・・・・・・・
とにかく関羽のおかげで曹操は窮地を救われました。
敵からも味方からも非難される顔良
正史『三国志』によると顔良は同僚の文醜と一緒に三軍を統率する人物と開戦前に孔融から評価されていました。一方、荀彧は孔融の評価に対して「顔良と文醜は匹夫の勇ですね。1回の戦いで生け捕れますよ」と反論しています。
荀彧は短期間でしたが袁紹に仕えていたことがありました。そのため顔良についての情報は持っていたはずと考えられます。
「でも、荀彧はアンチ袁紹だから顔良のことを悪く言うのは当たり前じゃない?」と思う人もいるかもしれません。
確かに短期間しか仕えていない1人の証言だったら、信ぴょう性はゼロでしょう。しかしながら、顔良のことを批判的に見ているのは荀彧1人ではありません。それは袁紹配下の沮授です。
沮授は出陣前に袁紹に「顔良は心根が狭いので単独で軍を任せてはいけません」と伝えていました。袁紹もこれには素直に従っており、郭図と淳于瓊を付けます。沮授の意見にあっさり従ったところを見ると、袁紹も顔良の性格を理解していたと推測されます。
おそらく顔良はリーダー・シップを発揮するタイプの武将ではなく、協力プレイで戦うタイプの武将なのでしょう。残念なことに沮授の作戦は曹操に見破られてしまい、郭図・淳于瓊は楽進・于禁の足止め作戦で動けなくなりました。
孤立した顔良は身動きがとれなくなり、そこを関羽に襲撃されて討たれました。ちなみに、なぜ関羽が顔良の位置を特定出来たのかと言いますと、パラソルのような戦車の天蓋が関羽の格好の目印になったのでした。
三国志ライター 晃の独り言
以上が顔良に関しての解説でした。顔良をネット検索したら、ネット上では字面から顔良を「イケメン」、文醜を「ブサメン」と呼んでいるようです。文醜が可哀そう・・・・・・
PCゲームの「三極姫4」では両名ともイケメン男子として描かれています。筆者はプレイしましたが、かなり強くて夏侯惇・夏侯淵・曹丕・張遼を倒されてしまい、曹操単独で倒したことだけは覚えています。仲間にしたら、頼もしい存在となりました。
同じくPCゲームの「真・恋姫無双」に登場する顔良は可愛らしい少女として登場します。こちらは未プレイです。デザインの好みについて問われると、筆者の好みは「真・恋姫無双」の顔良です。
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