司馬昭は西晋(280年~316年)の初代皇帝司馬炎の父です。
父の司馬懿・兄の司馬師と一緒に魏(220年~265年)に仕えていました。
魏の景元4年(263年)に鄧艾と鍾会に命じて蜀(221年~263年)を滅ぼします。咸熙2年(265年)には魏の最後の皇帝である曹奐に皇帝位を譲ってもらおうとしますが、その直前に亡くなりました。司馬昭は名前は有名であり、ゲームやマンガ、ドラマにもよく登場するのですが、どのような人物か分かっていません。そこで今回は司馬昭について解説いたします。
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司馬懿の次男として誕生
司馬昭は建安16年(211年)に司馬懿の次男として誕生しました。母は張春華、兄は司馬師、他に7人の弟がいますが全て異母弟です。若い時の司馬昭については記録が残っていません。小説『三国志演義』では諸葛亮の第1次北伐から従軍したことになっていますが、どうやら創作のようです。
史実の司馬昭は魏の正始5年(244年)の曹爽の蜀攻撃(興平の役)が出陣。これが確認がとれる限り初陣と考えられています。蜀将の王林が司馬昭の陣に夜襲をかけますが司馬昭は見事に防戦しました。
しかし、長期戦になり魏にとって不利な状況に陥ったので司馬昭は曹爽に撤退を提案しています。曹爽の派閥に所属する李勝などは徹底抗戦を主張しますが、最終的には撤退となりました。
正始の政変で父に協力
さて、曹爽は司馬懿から権力を取り上げて実権の無い太傅という位を与えていました。ところが、正始10年(249年)に司馬懿は曹爽から権力を取り戻すためにクーデターを起こします。
これを「正始の政変」と言います。この時、司馬昭も兵士を率いて洛陽の西宮と永寧宮の守備に回りましたが、父のクーデターの詳細な件は知らなかったようです。司馬昭が本当に知らなかったのは分かりませんが、曹爽は「免官だけで済ませる」という誘いに負けて降伏。
もちろん計略に長けた司馬懿は、曹爽やその一派を処刑しました。
前代未聞!!皇帝殺害事件発生
やがて魏の嘉平3年(251年)には司馬懿が、正元2年(255年)には兄の司馬師が亡くなって司馬昭が司馬氏の家督を継ぎました。
この時の魏の皇帝は第4代皇帝曹髦です。曹髦は幼い頃から将来を期待されており、鍾会から「才能は曹植・武勇は曹操」と言われていました。曹髦は皇帝でありますが実権は司馬昭に奪われています。
もちろん、そんなことは皇帝として許せなかったので権力を司馬昭から奪還しようと考えて曹髦は側近の王経・王業・王沈に相談しました。だが、相談された王業・王沈は自分たちに被害が及ぶことを恐れてすぐに司馬昭のもとに駆け込みます。
計画がばれた曹髦はもう腹をくくります。甘露5年(260年)曹髦は兵士を率いて司馬昭に立ち向かっていきました。ところが、立ちはだかるのは司馬昭の側近の賈充!
賈充は迎え撃つも形勢不利に陥りました。さすが曹髦は曹操と比較されるだけあって強いです。敵が手強いと思った賈充は部下を叱咤激励します「司馬昭様がお前たちを養ってきたのは、こんな日のためだ!後のこと(罪)は問題にせん!」それを聞いた成済という人物が飛び出て曹髦を刺し殺しました。
皇帝殺害事件・・・・・・まさかの結末
こうして戦いは終わり司馬昭の勝利します。
これにて一件落着・・・・・・と思ったら大間違い。陳泰という人物が皇帝殺害という前代未聞の事態にびっくりして泣き崩れます。陳泰は司馬懿と一緒に曹丕から後を託された陳羣の息子です。
陳泰は「軍の指揮をしていた賈充を殺さないとダメだ!」と言います。一方、司馬昭は賈充が大切な仲間なのでそれは出来ません。そこで曹髦を殺した「実行犯」の成済を処刑して責任をとらせることにしました。
一方、成済は納得がいかず肌脱ぎになって罵声をあげて大暴れ!まさに「話が違う!」という感じです。結局、成済は追い詰められて射殺されました。
いつの時代も上司の責任をとらされるのは部下に変わらないのです・・・・・・
お兄さん思いの司馬昭
司馬昭は晩年、長男と司馬炎と三男の司馬攸のどちらを後継者にしようか悩んだのです。普通に考えたら司馬炎に継がせるだけなので、何も悩む必要はありません。
司馬昭が悩んでいたのは、兄の司馬師の家督のことでした。
司馬師は子がいませんでした。そのため司馬昭は司馬攸を養子に出していました。だから、司馬攸は司馬師の家督を継いでいるのです。司馬昭は自分の家督よりも兄の家督を優先させた方がよいのでは、と考えました。
司馬昭はお兄さんのことが好きだったのでしょう。だが、部下一同は「ちょっと待ってください」と声をあげて反対しました。
結局、部下からの説得により司馬昭は司馬炎を後継者となり西晋を建国したのです。司馬攸は斉王に封建されました。
三国志ライター 晃の独り言
司馬炎は皇帝になりますが、自分の子供が皇帝としての力量が無いと分かるとかつて後継者争いをした司馬攸に家督を継ごうと考えました。かつてのわだかまりを無くそうとしたのです。血のつながった兄弟の愛情というものは美しい。
ところが、残念ながらこの計画は皇后や部下の手により闇に葬られました。司馬攸は不遇の生涯を閉じることになります。なんだか悔しい話ですね・・・・・・
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※参考文献
・渡邉義浩「司馬氏の台頭と西晋の建国」(初出2007年 のち『西晋「儒教国家」と貴族制』所収 汲古書院 2011年)
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