136話:蔣琬、姜維を引き立て北伐を託す


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司馬懿

 

五丈原で諸葛亮(しょかつりょう)が死去した時、司馬懿(しばい)は宿敵の死に一抹(いちまつ)(さび)しさを感じながら頭脳の別の所では、いまこそ蜀を滅ぼす好機と退却する蜀軍の追撃に転じます。しかし、そこには死んだはずの諸葛亮が涼しい顔をして漢丞相武郷侯諸葛亮(かんじょうしょうぶごうこうしょかつりょう)の深紅の牙旗(がき)の下の四輪車に(たたず)んでいたのです。

蜀の姜維

 

てっきり、孔明を死んだと思っていた司馬懿は魂が抜けるほどに驚き狼狽(ろうばい)します。その時、孔明の横から出て来たのが三十歳になったばかりの青年武将姜維(きょうい)でした。姜維の鋭鋒(えいほう)の鋭さに司馬懿はタジタジになり馬首を巡らして逃げ出します。これが世に言う死せる孔明生ける仲達を走らすです。

さて、あの時、孔明の(ひつぎ)を守っていた姜維は蔣琬(しょうえん)の指揮下で諸葛亮の後継者として着々とキャリアを積んでいました。

 

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呉と連携し北伐再開を画策する蔣琬

蔣琬(しょうえん)

 

蔣琬は西暦238年、右監軍(うかんぐん)輔漢将軍(ほかんしょうぐん)として成都にいた姜維を前線基地である漢中に呼び戻します。そして、姜維を司馬として別動隊を率いらせて、しばしば涼州に派遣して調略に宛てていました。同時に蔣琬は諸葛亮が苦戦した秦嶺山脈を越えての北伐プランを見直し、極秘に多数の船舶を建造し長江を下って漢水・沔水(べんすい)から魏興(ぎこう)・上庸を襲おうとします。簡単に言うと劉備の蜀獲りを逆にしたものと言えば分かりやすいでしょう。

洛陽城

 

さらに蔣琬は、北伐を呉の北上作戦と連動すべく成都に対して共同作戦の許可を求め、蜀の北伐は蔣琬の手で再開されそうに見えました。


北伐に難色を示す成都

費禕

 

ところが、成都からは蔣琬の北伐に対する許可がおりませんでした。どうやら成都では重臣連中が残らず長江を下りる東征に反対しているようなのです。朝廷からは費禕が漢中に派遣され、蔣琬に思い止まるように説得しています。

 

反対の理由は、長江を利用して攻め上るのは退却する時に流れを遡上(そじょう)しないとならず、敗北した場合には取り返しがつかない被害が出る事でした。ただ、それなら秦嶺山脈の細い桟道(さんどう)を行軍する諸葛亮の北伐も困難さではドッコイであり、事実は戦争のような費用と人的犠牲が莫大になる余計な事はしてくれるなという消極的な反対です。

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

もう一つの隠された理由は、諸葛亮の北伐の頃はまだ十代の少年だった劉禅(りゅうぜん)が、西暦241年には、34歳と立派に成人していて、皇帝親政(こうていしんせい)を意識し始めた事でした。自分が預かりしらない事を漢中で蔣琬がやり出せば、劉禅が愉快(ゆかい)であろうはずはありません。諸葛亮は出師(すいし)の表で劉禅を脅しつけてさえおけばよかったのですが、諸葛亮亡き今、それが出来る剛腕の政治家は蜀にはいませんでした。費禕にしても、心から北伐に反対だったわけではなく、このまま蔣琬が北伐を決行すれば、漢中と成都で権力が分裂する事を恐れての反対だったのです。

 

【孔明没後も続く!はじ三三国志演義全史】
全訳三国志演義

 

芍陂(しゃくは)の役勃発

三国志のモブ 反乱

 

西暦241年4月、孫権は曹魏討伐の兵を挙げて、揚州・荊州の二方面より侵攻、衛将軍の全琮(ぜんそう)淮南(わいなん)、威北将軍の諸葛恪(しょかつかく)六安(りくあん)を攻め、荊州方面では朱然が樊城(はんじょう)諸葛瑾(しょかつきん)歩隲(ほしつ)柤中(そちゅう)に進撃します。

 

ロバ顔の諸葛瑾

 

揚州方面では、全琮と諸葛恪が善戦し、荊州方面では、歩隲と諸葛瑾が朱然を補佐して補給を繋ぎ、朱然は樊城を包囲して、あと一歩で落城という寸前まで迫りますが、戦いの最中に孫権の皇太子だった孫登(そんとう)が死去します。

朱然

 

さらに病を推して従軍していた諸葛瑾の病状が悪化し指揮を執れなくなります。そこで司馬懿が樊城の救援に出向く情報がもたらされたので、呉軍は退却できなくなる事を恐れ、樊城の包囲を解いて、荊州と揚州から完全撤退したのです。

異議ありと叫ぶ司馬懿

 

この戦いは蜀が呼応できなかったので短時日で失敗してしまいましたが、蔣琬が長江を下って、呉の作戦に参加していれば、結果は変わったでしょうか?蔣琬が援軍を出しても、孫登の病死というアクシデントも諸葛瑾の病気も阻止できなかったでしょうから、大きく結果は変わらなかったかも知れません。


蔣琬、成都との対立で涪に左遷される

曹爽

 

しかし、蔣琬の不運はこれで終りませんでした。北伐を巡って対立した事で、成都の宮廷は蔣琬を(うと)んじて()左遷(させん)します。代わりに大将軍として漢中に赴任したのは費禕でした。西暦244年には、魏の曹爽(そうそう)は攻めてくる興勢(こうせい)の役が起きますが、その迎撃に大司馬である蔣琬も・姜維も参加していませんでした。或いは、本当に重病だったかも知れませんが、精魂込めて練った北伐プランを否定されて左遷の憂き目に遭い、失意の中で病気が重くなったそんな可能性も捨てきれません。


蔣琬、姜維に北伐を託す

姜維、孔明

 

もはや生きて諸葛亮の悲願を叶える術が無くなった蔣琬ですが、彼は、自身の夢を若き姜維に託そうとしていました。蔣琬は費禕と協議し、以下の上奏をなしています。

 

今日までを振り返れば、賊の(けがれ)れを打ち払い、兵難を止める事が私が拝命した職務でした。

しかし、漢中に赴いてから六年、私が非才で体が弱く、さらに病魔に襲われた為に計画も立てられず己の無力さに日々暗澹(あんたん)たる気持ちでおります。

現在、魏は九州を不法に占拠し、その基盤は強まる一方、邪悪は蔓延(はびこ)り取り除く事は容易ではありません。それでも、蜀と呉が力を合わせれば、魏の勢力伸長を阻止できるものを、呉は約束を違えるばかりで私は無念で夜も眠る事が出来ません。

過日、費禕と話してみましたが、涼州は異民族のいる要害の地で、蜀の進退とも助けになり賊の惜しむ場所です。それに加えて羌と胡は漢を慕う事、渇き水を求めるが如きです。

かつて姜将軍が涼州に入った時には、郭淮(かくわい)を破った事もあり、その長短を見ると涼州刺史に任命するに相応しき人です。どうか姜維を涼州刺史とし賊を破る為の権限をお与え下さい。さすれば私は、姜将軍を補佐して涪で後方支援を致し、その地の利を使い、四方の騒乱に万全に対処できましょう。

北伐する孔明

 

これを見ると蔣琬は自身が果たせなかった北伐の遺命を次には姜維に託した事が分かります。また、相談には費禕も関与している事から、費禕もまた、100%成都の味方ではなかった事が窺い知れるのです。西暦246年、蔣琬は左遷先の涪で病死しました、年齢は不詳ですが劉備が荊州を領有した頃に、二十歳で仕官したそうなので、五十は過ぎていたと思います。こうして、北伐の遺命は蔣琬から姜維へと継がれたのです。

 

三国志ライターkawausoの独り言

 

今回のお話は三国志演義には、収録されていません。蔣琬が北伐をするつもりであったのは、正史三国志に記録されている事ですが、三国志演義ではあまり蔣琬は重要視されてなく、気づくと焦点が姜維に移っていてあれ?と思います。そこで、はじ三版全訳三国志では、蔣琬が北伐の遺命を引き継ごうとして成都の反対に遭って左遷され、やがて死の床に就きながら、諸葛亮の遺命を若き姜維に告げて亡くなるまでを書きました。

 

参考文献:完訳三国志演義 正史三国志

 

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