建安5年(200年)に曹操と袁紹は官渡で天下の覇権をめぐって争いました。結果は烏巣の兵糧庫を襲撃した曹操の勝利に終わります。袁紹は2年後の建安7年(202年)にこの世を去りますが、子の袁譚と袁尚が曹操をまだ脅かしていました。
袁尚は部下の郭援・高幹、匈奴単于の呼廚泉と一緒に曹操を攻撃しました。この話は正史『三国志』に散見されるので、大規模な軍事行動であると分かります。今回は正史『三国志』をもとに郭援について解説します。
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一族の争い
前述したように建安7年(202年)に袁紹は亡くりました。袁紹は正式な後継者を指名することなくこの世を去ったので、部下の間で派閥抗争が勃発!後継者の候補として挙がったのが長男の袁譚、次は袁紹が生前に最も寵愛した三男の袁尚です。
袁譚と袁尚はお互いの正当性を主張して戦争を開始。一方、曹操は漁夫の利を狙って冀州攻略を目指します。曹操の動きを察知した袁尚は河東太守の郭援と袁紹の甥の高幹に命じて、匈奴単于の呼廚泉と一緒に曹操の後方をかく乱することを命じます。
郭援は鍾繇の甥であり、鍾会の従兄です。「郭」という名字であり、鍾繇と親族関係であることから豫州潁川郡の人物で間違いないでしょう。そうなると郭図・郭嘉・陳羣・荀彧・荀攸・辛評の親戚関係に該当します。曹操と袁一族との戦いは、他の一族の争いにまで発展していたのです。馬超はそんな時に郭援の討伐軍として派遣されます。
賈逵の籠城戦
馬超の父の馬騰は当時、袁譚と手を組んで曹操を倒すつもりでいましたが、鍾繇の部下である張既から利害関係に関して説得を受けました。納得した馬騰は曹操に味方することを決意。息子の馬超と部下の龐徳を派遣します。
一方、郭援は各地を攻撃していくつもの城を落としていきました。しかし、賈逵が守る城だけは落とせなかったので、匈奴単于の呼廚泉と連合して攻撃!城が陥落寸前にまで追い詰められます。郭援は賈逵に面会を申し入れました。城内の民は賈逵を殺さないことを条件に承諾。賈逵は郭援と交渉に赴きました。
郭援は「お前はよく戦った。部下になれ」と賈逵を武器で脅迫しますが、賈逵は屈服しません。怒った郭援が殺そうとすると、城内の民は「約束が違う!」と怒って徹底抗戦に入りました。
馬超軍の勝利
賈逵は郭援の側近が命乞いしたので殺されずにすみました。戻った賈逵は郭援の参謀である祝奥をだまして、先に要所である皮氏を占拠します。賈逵の計略にかかった郭援は7日間も足止めされました。その間に馬超・龐徳・鍾繇の軍が追いついてきます。両軍は正面衝突となりました。馬超はこの時、流矢が足に命中して負傷しますが、持っていた袋で足を包み戦い続けました。
この乱戦の最中に郭援は龐徳により首を斬られて討たれました。正史『三国志』に注を付けた裴松之が持ってきた『魏略』という書物によると、龐徳も討ち取ったのが郭援と気付いていなかったようでした。
終戦後に首を確認してもらったところ、そこで判明したようです。龐徳は鍾繇に謝罪しました。だが鍾繇は「郭援は私の甥であるが、国賊でもある。どうしてあなたが謝罪するのですか?」と返答します。ただし、目からは涙をボロボロ流して泣いていたようです。
三国志ライター 晃の独り言
郭援に関する詳細な記述は皆無です。やはり、曹操に歯向かった人物=逆賊という扱いになっているため、史料が少ないのでしょう。鍾繇は戦後、郭援のことについては一切語りませんでした。一族の汚点になった人物なので闇に葬ったのでしょう。ただし、龐徳から首を持って来られた時に鍾繇が流した涙はウソでは無かったと筆者は思います。
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