韓当といえば、孫堅時代から三代の孫氏に仕えた呉の元勲です。しかし、この韓当の出身地は幽州遼西令支で、あの公孫瓚と同じでした。一方の孫堅は揚州呉郡富春の人で出身地がまるで違います。そこで、韓当と孫堅の接点を色々と探っていると面白い事が分かったのです。
どうも孫堅の手柄のかなりの部分は、本来、韓当の手柄であったのですが、ある理由により孫堅に奪われていたようなのです。
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最初から孫堅配下の韓当の不思議
韓当は字を義公と言い遼西令支の人です。先祖については不明ですが、中華の辺境に生まれているので、親は庶民か漢人と異民族の混血ではないかと推測します。韓当は弓馬に慣れ、膂力があり孫堅に寵幸されて征伐に従って各地を転戦し、しばしば危ない橋を渡り、敵陣を降し異民族を捕らえ別部司馬となったとあります。
このように、韓当は唐突に孫堅の配下になっていますが、転戦していた孫堅は幽州で戦った事はありません。では、韓当と孫堅はいつ出会ったのでしょうか?
韓当は公孫瓚配下の幽州突騎だった?
孫堅は黄巾賊討伐の功績が認められ、西暦185年の韓遂・辺章の乱の際に車騎将軍の張温に声を掛けられ、陶謙と共に参軍として従軍しています。陶謙と孫堅が張温の配下として席を並べていたのも意外ですが、張温はさらに鮮卑族の討伐で有名を馳せていた公孫瓚も招集し、幽州突騎3000名の指揮を任せました。
この幽州突騎は、光武帝の時代から北方異民族に対する備えとしておかれた騎兵の精鋭で漢化した烏桓族や混血の人々で編成されていました。
ここで韓当の特徴を再び見てみると、弓馬に慣れ、膂力がありとあります。膂力は背筋力であり、強弓を引ける力の意味ですから韓当は幽州突騎の一人だった可能性が高いです。
公孫瓚が張温の軍勢に合流して薊にいた時に、幽州で張純が遼西烏丸の丘力居らを誘って叛き張純の乱を起こしたので、朝廷は公孫瓚に張純討伐を命じますが、幽州突騎全てを持って行ったとも思えないので一部は張温の軍に残り、韓遂・辺章の乱の鎮圧に従事したと考えます。
その中に韓当もいて、やがて孫堅と知り合い主従関係になったのではないでしょうか?
手柄を立てても官位が貰えない韓当
こうして、孫堅の配下になった韓当ですが、孫堅に深く信頼され各地を転戦し、数多くの虜(異民族)を捕らえながら、個人的に官位を受ける事がありませんでした。その理由について、正史三国志韓当伝を補う呉書は、以下のように書いています。
韓当は勤苦して功績があったが、軍旅では陪臣扱いで、故に爵位を加えられなかった。孫堅の世には最終的に別部司馬(別働隊長)だった。
つまり、大きな手柄を立てた韓当ですが、孫堅に隷属している兵卒扱いで部将でさえなく韓当の手柄も結局は孫堅の手柄としてカウントされ、韓当には反映されなかったと書いています。
実は、董卓が洛陽を陥れて群雄割拠になる以前は、こんな不公平な人事は普通にありました。朝廷から見れば褒賞すべきは孫堅までで、その配下などは等しく兵卒、孫堅が適当に自分の褒美から分配すればいいとしか考えていないのです。
その事もあってか、孫堅は韓当を別働隊長に任じています。独立部隊なら、なんとかスポットがあたるという苦肉の策でしょうか?
しかし、朝廷の無理解に泣いたのは孫堅も同じで、董卓とのイザコザを起こしつつも韓遂・辺章を追い払う事に成功した張温軍ですが、朝廷は敵が勝手に逃げたのだから論功行賞は行わないとして、無報酬で放り出し孫堅を呆れさせました。
孫策時代から官位が登りだす韓当
韓当は孫堅が戦死した後は、一時袁術軍に吸収され、その後孫策に仕えます。
孫策が劉繇を討伐する時に韓当は従い先登校尉に昇進、兵二千に騎馬五十匹を授かりました。その後は劉勲征伐に従い、江夏で黄祖を破り、次に鄱陽の山越族の反乱を討ち楽安県長を兼ねると山越族は降伏して韓当に従いました。
赤壁の戦いの頃には、中郎将になり周瑜らと与に曹操軍を打ち破り、呂蒙と関羽を撃破して南郡を奪取して、偏将軍に昇進、さらに永昌太守を兼領。
夷陵の戦いでは陸遜・朱然らと共同で劉備を攻めて火攻めで大破して、威烈将軍に昇進して都亭侯に封じられ、最後には都督にまでなっています。韓当の勇猛さは大変なもので、敢死および解煩軍という最初から生還を捨てた特殊部隊を率いて勇戦し丹陽の賊を破っています。
韓当には、なんとなく六十を過ぎても、城壁を登って戦った呉のエクスペンダブルズ甘寧にダブるイメージがありますが、やはり戦場で犬のような扱いを受け、孫堅と死線をくぐりぬけた経験から、いかに大変な状況でも、ろくに官位ももらえなかった惨めな昔に比べればマシと開き直って頑張れたのかも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
頑張っても報われない、これは三国志の初期から戦った劉備や孫堅の境遇に共通していました。劉備も黄巾賊討伐に従軍して、やっと掴んだ県の警察署長のポストを経費節約のリストラで失っています。
実力本位の世界になるのは、董卓が洛陽を落として暴政を開始した時からであり、それ以前の後漢王朝が健在な頃は生まれ落ちた時の家柄が出世を左右していました。韓当にしても後漢王朝が揺るがなければ、どんなに手柄を立てようと生涯一兵卒として人生を終わったかも知れません。
参考文献:正史三国志
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