文鴦は、最近三国無双に登場するようになった三国志の最終盤で登場する武将です。
なにしろ文鴦は西暦238年の生まれ、諸葛亮の死後4年も経過して誕生しています。正史三国志を書いた陳寿ですら西暦233年の生まれなので、いかに遅いか分かりますね。
そのせいで横山三国志にも出番がなく知名度が低いのですが、三国志演義では趙雲に例えられる程に大活躍している武将なのです。今回はネット検索でも、そう簡単に見られない演義の文鴦の雄姿を紹介しましょう。
この記事の目次
三国志演義では、百十回に登場
文鴦は、三国志演義百二十回の中の終盤百十回「文鴦単騎雄兵を退け、姜維水を背にして大敵を破る」に登場します。
その頃、揚州刺史領淮南軍馬毋丘倹は、司馬師が曹芳を廃して曹髦を立てた事で怒っていたものの、遠く離れた揚州では、司馬氏の専横をいかんともできず無念がっていました。
これに対し息子の毋丘甸が、天下の為に立つべきと進言し、毋丘倹は喜びます。そこで、刺史の文欽を招いて協議をすると、文欽も司馬氏を討つ事に賛同し、自分の次男に文叔、幼名を阿鴦というものがいると毋丘倹に言います。これが文鴦の初登場で、その容姿はこんな風に形容されます。
馬上に鉄鞭と鎗を使い万夫不当の勇士
おお、なかなかいいですね、騎馬で片手に鉄鞭、片手に鎗の若武者の姿が浮かびます。史実では、この時文鴦は18歳なので年齢不詳の趙雲と違い、正真正銘の若武者です。
司馬師、鍾会に唆され自ら毋丘倹討伐に
文欽の賛同が得られた毋丘倹は喜び、偽の太后からの密詔を作成して司馬氏誅滅の詔が下りたと兵士を騙して寿春城に立て籠もり、その後、寿春城には年寄兵だけを置いて、六万の軍勢を率いて項城に籠城します。文欽もこれに呼応し2万の軍勢で遊軍の役割を果たします。
毋丘倹の反乱に対し、当初司馬師は、左目の瘤の手術痕が痛むので親征を見合わせるつもりでしたが、中書侍郎の鍾会がよせばいいのに、「淮・楚の兵は強く士気も高いので、他の者を派遣して敗れる事あらば国家の一大事なので、ここは是非殿に・・」と無茶ぶりするので、責任感が強い司馬師は布団からがばと跳ね起きます。
「そうじゃ、このわしが行かねば、賊を打ち破る事は出来ぬ」という事で、弟の司馬昭に洛陽の守備と朝廷の執務を任せ、馬では振動が目の傷に障るので、座る部分を布団で柔らかくした輿に乗り出陣しました。
後の反乱を考えると、鍾会、司馬師を殺す為にわざとこんな事をしたんですかね?
序盤で躓く毋丘倹
司馬師は、諸葛誕に豫洲の軍勢を率いさせて寿春を攻めさせ、胡遵には青州の軍を率いさせ礁と宋の地で敵の帰路を断たせ、王基には先手の軍勢を率いさせて先に南頓の攻略に向かわせ、自身は大軍を率いて汝南に入り、文武の官僚を集めて今後の作戦を協議します。
軍議では持久の計略と、急いで南頓に入城して毋丘倹の出鼻を挫く計略が出ますが、司馬師は急ぎの策を選択して、南頓城に入りました。同じ頃、部下の葛雍の進言で南頓に向かっていた毋丘倹は、南頓に翻る司馬師の軍旗の多さに驚き、本陣に引き返すと、そこに呉の孫峻が長江を渡り、寿春を襲うという伝令が入り慌てて項城に引き返しました。
司馬師、鄧艾の後詰として楽嘉城に進軍
さて、毋丘倹の退却を知った司馬師は今後の対策を協議します。すると、尚書の傅嘏が以下のように進言しました。
「毋丘倹は呉が寿春を攻めていると知り逃げ帰ったのです。きっと項城の6万人から幾らかの援軍を寿春の応援に割き、守りを固めるでしょう。そこで、我が軍は軍を3つに分け、一手は楽嘉城、一手は寿春、一手は項城にそれぞれ押し寄せれば、相互に連携できなくなった淮南の敵軍は総崩れになるに違いありません」
傅嘏は、さらに兗州刺史の鄧艾は智謀に長けているので、先鋒として楽嘉城に向けて、後詰として司馬師が行けば逆賊を討つのは容易と請け負ったので、司馬師は納得し兗州から鄧艾を呼び寄せて一軍を授けて楽嘉城に向かわせ、自分はその後に大軍で続きました。
若武者文鴦出陣
項城の毋丘倹は、司馬師が進軍した楽嘉城の様子が心配で何度も偵察を送り様子を探らせていましたが、敵の襲来を恐れる余り、つい文欽に相談します。すると、文欽はカラカラと笑い
「都督、御心配には及びません、それがしと倅の文鴦に5千の兵さえ与えて頂ければ、ただちに敵を打ち破り、楽嘉城を解放してみせましょう」となんとも頼もしい一言。
そこで、文欽と文鴦は5千の兵を率いて、楽嘉城へ急行します。楽嘉城の付近につくと、城の西は魏の軍勢で充満し、その兵数は1万余、本陣の方を遠望すると、虎の皮で繋ぎあわせた帳を取り囲んで黒い絹傘、朱色の旗が立ち並ぶ中に、黄色地に錦で帥と縫い取りした旗があり、そこに司馬師がいるのが分かります。
ところが、司馬師の陣は、いまから構築する所で出来上がっていませんでした。
文欽の傍らでそれを聴いていた文鴦は、手にした鉄鞭をくるりと回して腰に差し、
「父上、司馬師の陣屋が整わなぬうちに、軍を二手に分けて左右より襲えば充分に勝利を望めましょう」と言います。文欽はそれを聴いて、さすが我が息子と喜び、「面白い、ではいつ決行する?」と聞くと文鴦は、
「今日の黄昏時、父上は2500の兵で城南より押し寄せ、私は城北より攻め掛かり、三番太鼓の頃に陣屋で落ち合いましょう」と決めます。文欽は承知しその夜、軍を二手に分けました。
文鴦の襲撃に司馬師目玉ボーン!
その日、司馬師は手術した左目の瘤が痛くて、陣屋で横になっていました。周囲は屈強な親衛隊、数百名が護衛しセキュリティも万全です。
ところが夜、三番太鼓が打ち鳴らされる時間になると突然、陣中でうわあああああ!と鬨の声が上がり司馬師は飛び起きます。一体、何事だと司馬師が将校に問うと
「一手の軍勢が陣の北よりまっしぐらに斬り込んで参り、これを率いている大将の武勇には、とうてい、手向かいできませぬ」
と答えました。
それを聴き、司馬師の顔にカッと血が上った途端、左の傷口から目玉がボーン!と飛び出し、さらに膿んだ血がドビューッと噴きあがり、辺り一面血の海になります。
その痛い事、痛い事、もし次男だったら耐えられない痛みですが、そこは司馬師、ガマン強い長男坊、俺が泣き叫んだら軍がパニックだと、布団を噛んで痛みを堪え、「みだりに騒ぐ者は首を打つ」と命じて懸命に指揮を執ります。
司馬師の本陣に斬り込んだ文鴦の軍勢は、縦横無尽に駆け回り、進む所に敵は無し、立ち向かうものは、鎗で突かれ、鞭で打たれて、おびただしい死者を出します。さあ、これは司馬師、大ピンチ、この窮地を救うものは出現するのでしょうか?
ボンクラ文欽に代わり鄧艾が出現
文鴦は、司馬師の本陣で暴れ回りつつ、父文欽の軍勢を心待ちにしますが、なかなか文欽は現れません。それでも待ち続け、東の空が白みだすと、北の方から軍勢が向かってきます。
「これは異なこと、父上には南から攻め込むと約束したはずだが」
文鴦が不審に思いつつも、北の方向に向かうと、それは文欽ではなく、遅れて到着した魏の鄧艾でした。
「おのれィ、謀反人どもめ!そこを動かず首になれい」
鄧艾は、馬を躍らせ刀を水平に伸ばしたまま、文鴦に襲い掛かります。文鴦は、鄧艾の刀を鎗でひねりあげ、四、五十合も撃ち合いますが勝負は互角で決着がつきません。
さらに、そこに襲撃から立ち直った本陣の軍勢が文鴦の軍勢に襲い掛かり挟み撃ちになり、作戦の失敗を悟った文鴦は、部下に生き延びるように命じ、囲みを解いて単騎で逃げ出しました。
ちなみに来なかった父の文欽ですが、襲撃の途中で道に迷ったと演義では説明されています。ダサい、、ダサすぎる・・
たった1人で数百騎を始末する文鴦
しかし、自分達に散々に恥をかかせた文鴦をおめおめ逃がすほど魏軍の将校は腰抜けではありません。文鴦が囲みを破って逃げるのを、いきり立って数百騎で追います。
「殺せ!あやつの首を獲らずして殿に合わせる顔はない」
こうして、楽嘉橋の前まで追い駆けた将校ですが、そこで文鴦はくるりと向き直り、どりゃあとばかりに将校に向かい突進、鉄鞭で将校をバラバラと数名も打ち倒したので、驚いた将校たちは退却しました。
すると文鴦は、急ぐ様子もなく、馬を歩かせゆるゆると橋を渡り始めます。それを見ていた将校たちは、唖然としました。
「あの小僧、もしや、我々から逃げられると確信しているのか?精鋭である我が騎兵から、、おのれェ、なめくさりおって」
騎兵100騎あまりは、また団結して橋の途中にいる文鴦に追いつきます。
すると文鴦は血相を変え
「うじむしども、命が惜しくないのかァ!」
かくして、再び手綱を巡らし、敵の騎兵を鉄鞭でバラバラと打ち倒します。将校達は、こんな風に4~5回も突撃を繰り返しますが、ついに文鴦に傷一つ付けられず、とうとう追撃を諦めました。
今趙雲文鴦
三国志演義百十回の前半は毋丘倹の乱を扱ったモノですが、主人公のハズの毋丘倹は、ほとんど出番もなく文鴦が逃げた後に討たれて終ります。ここで描かれるのは文鴦の大活躍であり、その活躍は長坂の趙雲になぞらえられています。
長坂にて当年独り曹を拒ぎ
子竜これ従り英豪を顕わしぬ
楽嘉城内鋒を争う処
また見る文鴦の胆気高きを
三国志演義は、このような詩を送り文鴦の胆力を讃えています。
三国志ライターkawausoの独り言
このように文鴦は敵ながら善玉の趙雲に匹敵する扱いを受けています。しかし、文鴦自身は史実では諸葛誕の乱後に司馬昭に降伏しており、最後まで抵抗したわけでもありません。
三国志演義でも、カッコイイのは毋丘倹の乱までで、次の諸葛誕の乱では、呉の将として諸葛誕に加勢して寿春城に入るモノの父の文欽を諸葛誕に殺害され、それを恨んで弟と二人で司馬昭に降伏します。ここからは司馬昭に利用され、弟の文虎と寿春城の兵士に降伏を呼びかける役回りを与えられ冴えない状態で演義から退場していくのです。
参考文献:完訳 三国志演義 岩波文庫
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