金持ち。誰もが夢見るものである。ただし努力してなる人、金持ちに媚びを売ってなる人・・・・・・なり方は人それぞれ。
今回は曹操の娘と結婚することを夢見たが、曹丕の妨害にあって破れた男、丁儀と弟の丁廙について紹介します。
父親 丁沖
丁儀・丁廙兄弟は沛郡の出身です。曹操とは同郷の人物であり、また父親の丁沖も曹操の友人でした。あまり知られていないのですが、曹操の最初の妻である丁夫人、司馬懿のクーデターで殺害された曹爽一派の丁謐は彼らの一族です。
丁沖は朝廷で天子の侍従官を歴任した人物でした。董卓の長安遷都では献帝に随行しています。天下が乱れていることから曹操に、「あなたは昔から政治を補佐していく志がありました。今がその時です」と手紙を書きます。手紙は河内太守の張楊から曹操のもとに渡ります。
やがて時は流れて興平2年(195年)に董卓の残党の政権争いに嫌気がさした献帝は長安を脱出。曹操に保護を求めました。
この時も丁沖は同行しており曹操に保護してもらってから司隷校尉に任命されます。司隷校尉は朝廷内の監察の仕事です。それから間もなくして丁沖はこの世を去りました。昔から酒好きだったので飲みすぎが原因だったようです。
曹丕の妨害にあって結婚破談!!
曹操は丁沖の息子の丁儀が「才能あり」という噂を以前から知っていたので、娘の清河長公主の婿にしようと思いました。
それを聞いて妨害しようと企んだ人物がいました。それは曹丕でした。曹丕は丁儀の目が不自由である話を知っていたのです。才能と障害があることは全く関係ありませんが、昔は体裁を気にするものです。
「父上、女はイケメンがいいものです!私は夏侯惇の息子の夏侯楙を推薦します」と曹丕は曹操に言いました。
政治と軍事に強い曹操ですが、娘の結婚となるとあっさりと曹丕の口車に乗る始末。イケメンを持ってきて娘を喜ばせたかったのでしょうか・・・・・・そう考えると曹操も親なんですね(笑)
こうして丁儀と清河長公主の婚約は破談。彼女は夏侯楙と結婚しました。だが、破談後に曹操は丁儀と2人きりで話すと、とんでもない逸材であると分かりました。
「曹丕のクソガキめ、俺をだましたな!」と曹操は悔しがりましたが、もはや後の祭りでした。一方、丁儀も清河長公主との婚約を破談にさせられたことから、曹丕を怨むようになったそうです。
曹植に接近して命を落とす
さて、丁儀は曹丕の弟の曹植に近付きました。彼は10代で文才に優れていたので曹操から非常に愛されていました。
丁儀と弟の丁廙も文才には優れていたので曹植の詩文仲間になりました。丁儀・丁廙兄弟と曹植の教育係である楊脩は曹操に対して、曹植を後継ぎにすることをすすめました。
推薦に関しては正史『三国志』に注を付けた裴松之が持って来た『文士伝』という史料に記されています。彼らは「曹植様を後継ぎにしてください」とストレートに言わずに、「1番分かっているのは曹操様です。我々が答えることではありません」と婉曲的な言い回しをするのでした。
さすが文才があるだけあって口も達者!また、丁儀の工作により曹操に長年仕えた崔琰と毛玠を排除しました。彼らを始末したのは法律に詳しいからと考えられます。
抜かりなしの曹植派でしたがミスが1つありました。それは祭り上げていた曹植です。彼は性格が大雑把で自分を律する行いが全く出来ません。皇帝しか通れない道路を平気で通行したり、酒に酔って遅刻したり大人としてダメな所が目立ちました。
それに比べれば曹丕は失敗もなく、普通にこなしていく。それどころか曹丕は司馬懿・賈詡・劉曄、さらに後宮の女官も味方につけたので勢力が曹植よりも大きくなります。
曹操も曹植の非常識な行動をいくつも見たので、後継者から外してしまいました。こうして後継者問題は曹丕の勝利に終わります。勝者である曹丕は何か理由をつけて丁儀・丁廙を自殺させようと計画しました。
丁儀は友人の夏侯尚に助けを頼みますが夏侯尚は困ってしまい、何も出来ませんでした。やがて曹操は亡くなり曹丕は魏(220年~265年)を建国。黄初元年(220年)に皇帝に即位した曹丕は丁儀・丁廙兄弟を逮捕して一族と一緒に処刑してしまいました。
三国志ライター 晃の独り言 イジワル陳寿の真相?
丁儀・丁廙兄弟に関して正史『三国志』には列伝がありません。どうやら陳寿がわざと掲載しなかったそうです。
詳細に関しては『晋書』の陳寿伝に記載されています。それによると米が無いので困っていた陳寿は、丁儀・丁廙兄弟の子孫に「米をください。そうすれば、ご先祖の立派な伝記を書きます」と言ったそうです。
ドン引きした丁儀・丁廙の子孫は断りを入れました。断られた陳寿は掲載しなかったようですが、この話が真実だとすると正史『三国志』掲載の人物は、子孫が陳寿に金や米で書いてもらったことになります。
現代で例えるのなら自費出版で自分や故人の伝記を出すのと変わりありません。そうまでして記録とは残してもらいたいものでしょうか?
もちろん、この話は真偽不明です。陳寿を貶めるのが目的ではないかと言われています。前述したように丁儀・丁廙の一族は曹丕により殺されているので、残っているはずがないのです。もしいたとしても名字や住んでいる土地も変えています。陳寿はわざわざ子孫を探し出して会ったのですか?
その子孫を見つけ出すなんて、陳寿も相当苦労したはずです。お疲れ様でした!
※参考文献
・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫 2010年)
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