初平3年(192年)に董卓は養子である呂布と王允の手により殺害されました。後漢(25年~220年)の政治を牛耳っていた暴君はここに斃れたのです。
しかし間もなく、董卓の残党である李傕と郭汜の手により王允は殺害されました。
王允の一族の多くは李傕たちに殺されましたが、城壁を飛び越えて脱出した生き残りがいました。
名は王淩。魏(220年~265年)に仕えて、後に司馬懿に対してクーデターを起こした人物でした。今回は正史『三国志』をもとに王淩と彼の一族である太原王氏について解説します。
※記事中のセリフは現代の人に分かりやすく翻訳しています。
長安からの脱出
王淩は王允の甥に当たる人物です。初平3年(192年)に王允が呂布と共謀して董卓を殺害するも間もなく、李傕と郭汜が裏道を通って攻め込んできました。
王允は殺害されて呂布は逃亡。この時に多くの王氏一族が命を落とします。王淩は兄と一緒に城壁を飛び越えて脱出に成功。故郷の太原郡にまで逃げて身を隠しました。
曹操によりスカウトされる
しばらくして王淩は役人になりますが、ある事件に引っかかり髠刑5年にされてしまいました。何度も解説したことがあるので、しつこいと思われるかもしれませんが、髠刑は髪を切られる刑罰であり中国では屈辱的な刑罰でした。
王淩が引っかかった事件について史書に詳細なことは記されていません。内容を記さないことは本当に王淩が関わっていた可能性が高いです。陳寿が生きていた西晋(265年~316年)は王淩の親族である太原王氏の力が強かったので、彼らに忖度して内容を記さなかったのでしょう。
話を戻します。囚人に落とされてボロボロになっていた王淩ですが、偶然通りかかった曹操が話しかけて王淩が王允の親族であると分かると、すぐに登用してあげたのです。能力も見てないで登用するなんて、曹操もブランドで登用するところがあったのですね(笑)
軍事で大活躍
王淩は曹操存命中の活躍は記録が残っていません。ただし、曹操の死後に兗州刺史に任命されています。兗州は曹操がかつて治めていた土地ですので、王淩が信頼されていたと分かります。
黄初3年(222年)に王淩は張遼と一緒に呉(222年~280年)の呂範と戦って見事に破りました。また、太和2年(228年)には曹休と一緒に石亭の戦いに出陣。
しかし曹休は従軍していた賈逵と仲が悪く、また呉から偽の投降をしてきた周魴を信用したことから大敗!だが、王淩は曹休を逃がすために奮戦しました。このように王淩は軍事面に置いて活躍することが多かった人物でした。
魏の内紛
王淩の甥に令孤愚という人物がいました。この人も曹操が赴任していた兗州刺史に任命されたので、有能であったことが分かります。このことから王淩の晩年は安泰のはずでした。
魏は2代皇帝である曹叡の死後、曹芳が後を継ぎます。ところが、曹芳は幼く後見役に曹真の息子である曹爽がつきました。
しかし魏の正始10年(249年)に司馬懿が曹爽から政権を奪還。曹爽を処刑しました。王淩はこれで自分の将来に不安を覚えたのでした。
【次のページに続きます】