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この記事の目次
馬謖による差別と説得工作の失敗
だが、計画は成功しませんでした。王平の上官である馬謖が山頂に陣を布陣したことにより魏軍により水路を断たれたのです。王平は布陣の際に馬謖に注意を促しましたが馬謖は全く聞き入れません。これは馬謖のプライドが許さなかったからでした。
馬謖は荊州でも名門の家柄、それに比べて王平は異民族で識字能力無し。馬謖が行っているのは異民族に対する差別思想です。現代では絶対に許せないことです。
それどころか王平や陳寿の父による板楯蛮の説得工作も失敗に終わります。魏が派遣した将軍は張郃でした。張郃は建安23年(218年)に劉備が漢中に攻め込んで来た時に張飛と戦いました。
その時に板楯蛮を保護していたのです。つまり、板楯蛮にとって張郃は恩人でした。曹叡が司馬懿や曹真、郭淮ではなく張郃を派遣したのは、そういう意図があったからです。
街亭の敗戦からの出世
街亭の戦いは張郃により水路を断たれたので敗戦に終わりました。王平軍はこの時、1000人程度しかいませんでしたが、太鼓を力一杯叩いて大声を出したので、張郃軍は大軍がいると勘違いして撤退。
また、趙雲の奮戦もあり成都の帰還には成功します。帰還後に無駄な布陣を敷いて敗戦を招いた馬謖を処刑します。
ただし王平は良く戦ったことから死罪にせずに参軍(参謀)にして五部の兵を統率させました。五部の兵とは漢民族の地に移住した異民族の5つの軍です。
張郃との決着
建興9年(231年)に蜀は第4次北伐を行いました。王平の相手は、かつて敗北した張郃です。この時、張郃は出陣しますが王平は徹底的に堅守したので張郃はついに勝利を得ることが出来ませんでした。やがて蜀の本国にいる李厳から兵糧が足りていないという虚偽の手紙が届いたので、蜀軍は撤退になります。
司馬懿と張郃は蜀軍の撤退をチャンスと考えて追撃!しかし、蜀軍は念のために待ち伏せしていた兵士で張郃を攻撃。張郃を討たれてしまいました。こうして街亭の戦い以来、王平を悩ませた張郃は討たれたのでした。
魏延を討ち大出世!
建興12年(234年)に蜀は第5次北伐を行いますが、諸葛亮は対陣中に病死。蜀軍は撤退となりました。しかし、この撤退の最中に魏延が反乱を起こします。魏延は諸葛亮の側近の楊儀と不仲だったのでその反発から反乱を起こしたのでした。
鎮圧に派遣されたのは王平でした。王平はたった1回の戦で魏延を討ち取ってしまいます。この功績により王平は漢中太守、呉懿の副官に任命されました。
漢中太守はかつて魏延が就任していた位です。『三国志演義』で魏延が就任していた位は馬岱が受け継ぐことになっていますが、史実では王平だったのです。
また、呉懿の妹は劉備に嫁いでいます。つまり呉懿は外戚(=皇帝の親族)です。そのような人物の補佐を任せられるということは、王平の信頼が厚いことが分かります。
降伏や敗北を重ねた王平は、ここに苦労が報われたのでした。
三国志ライター 晃の独り言
王平の評価を読んでいると奇妙に感じます。(1)法律・規則は遵守、(2)性格は偏狭、(3)軽はずみ と記されています。どうも性格が一致していません。実は私は正史『三国志』の王平伝を最初に読んだ時から、ここが気になっていました。
おそらく王平は精神的に不安定な人だった可能性があると推測されます。若い時から苦労していたのもあるでしょうし、識字能力が無いというコンプレックスも抱えていたのが原因でしょう。
読者の皆様はどう思われますか?
※参考文献
・石井仁『魏の武帝 曹操』(初出2000年 後に新人物文庫 2010年)
・並木淳哉「曹魏の関隴領有と諸葛亮の第一次『北伐』」(『駒沢史学』87 2016年)
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