三国志はお馴染みですが、その三国志の漢王朝を開いた存在が劉邦。そしてその漢王朝は一度滅ぼされるも、復興したのが光武帝こと劉秀。
項羽と劉邦は三国志にも負けず劣らず人気だと思いますが、光武帝はいまひとつマイナー……もしかして主人公の性格も影響しているのか?
と、いうことで今回は正統派ヒーロー(?)光武帝とダークヒーロー(?)劉邦の性格を比較してみたいと思います。
劉秀、恵あり
まずは光武帝、劉秀の性格を。光武帝を知る人は「生真面目で柔和な人」と口々に言い、幼い頃は大人しすぎたのか目立たないこともありました。
その一方で皇帝となってからもその性格に大きな変動もなく、失敗した部下にも穏やかに接し(なお文官には厳しかったとかも言われている)、皇帝即位後お約束のようにある粛清などもしなかったと言われています。
また皇帝になっても部下たちと大騒ぎしたりとざっくばらん過ぎて夜に出歩いて深夜に締め出しをくらったなどの逸話もある、チート的な能力の高さにフレンドリーな性格を併せ持った人物と言えるでしょう。
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劉邦、難あり?
劉邦は他人に施しを良く好む性格でありながら、細かいことにこだわらない人間でした。しかし家の手伝いはしないまま遊び歩き、女遊びが激しく、つけで他所でお酒を飲み歩く人物でもありました。
気性が激しく、学問は嫌いで、傲慢で礼儀知らずな人間だったと言われていますが、その一方ではっきりした性格であり、他人の意見をよく聞き、皇帝となっても親しみやすい人物だったともされています。若い頃はややごろつきみたいな暮らしをおくっていましたが、それでも部下にも割と寛容な方であり、人材運用に長けていた人物だと思います。
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高皇帝と光武帝のイメージの違い
これは筆者の個人的なイメージですが、光武帝は何でもできてしまいます。もちろん光武帝の部下にも素晴らしい人材はいるのですが、光武帝が出来過ぎて少し霞むところがあります。
一方で高皇帝、劉邦はできないことがあります。が、劉邦は良く他人を頼り、その人物の良い所を活かしてくれる存在ではないかと思うのです。ある意味完全無欠な光武帝と、欠点もあり美点もありな高皇帝。
どちらも題材として面白いけれど、民間で好まれたのは高皇帝、劉邦だった……こういう理由も、光武帝が日本ではややマイナーな理由の一つと言えるのではないでしょうか。
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劉邦と劉備
ここでちょっと劉邦と劉備も比較してみましょう。
劉邦と劉備、似通った部分も多々あります。また二人に共通している面として、良い人材が集まってくるという点もあるでしょう。ではなぜ劉備は天下統一を成し遂げられなかったのか?
惜しいことに、劉備は良い人材がすぐいなくなった(ホウ統、法正など)件、そして同じように良い人材を集めて運用することに長けていた存在である「曹操」という存在が同時期に存在していた。
またその人材を夷陵の戦いという復讐戦で一気に失って立ち直ることができなかった……ことが大きいのではないでしょうか。そう考えると、つくづく劉邦という人間が成し遂げたことの凄さが分かりますね。
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趙天王、語りて曰く
さてここでとある皇帝の皇帝比較逸話をご紹介してみましょう。
「高祖に出会ったら部下になろう」
「光武帝に出会ったら戦いを挑もう」
「曹操や司馬親子はダメダメ!(意訳)」
これは後趙の石勒の宴会で部下に語った言葉の一つですが、興味深いことに石勅は劉邦には仕えるけど光武帝相手だったら戦うと言っているんですね。これには石勅の価値観が表れていると思います。
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石勅の価値観
石勅は趙漢皇帝・劉淵に仕えていましたが、その五代目皇帝・劉曜の代に離反して自らも皇帝と名乗りました。劉邦は前皇帝が殺された後にその仇を討ち、皇帝になりました。対して光武帝は更皇帝という存在がいるにも関わらず、独立して皇帝になりました。
つまり細部は違えど光武帝と石勅は同じようなことをやっていて、劉邦は皇帝の仇を討った上で天下を取って新しい皇帝となったのです。なので石勅から見ると
「高祖はすごい、正当派」「光武帝と自分は同じようなもんだから戦って天下を争おうぜ!」という考えになったのですね。
これは単に劉邦と光武帝を比較したというだけでなく、当時の価値観、石勅自身の価値観も表しており、名言中の名言であると思います。
子孫が凄いことと奥さんが怖いことで有名な劉邦ですが、彼個人の凄さもまた後の時代でも十分に注目されていた……それが良く分かる話だと思います。
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曹操と司馬懿がダメダメなのは?
最後にちょっと余談を。
石勅が曹操と司馬懿(とその子たち)をだめだめと言った理由ですが
「孤児や寡婦を欺いて天下を取ってはならぬ」と言っています。
ここにもまた、石勅の価値観が表れています。曹操と司馬懿は、言ってみれば時の権力者でもありました。やろうと思えば簒奪すら可能でもあったでしょう。
しかし彼らはそうしなかった……それには色々なしがらみもあったからだと思います。
ですが次世代ではその権力は奪われました。
やろうと思えばできたのにしなかった、やれることをやらなかった彼らは、石勅からすれば「やれる時にやった」自分よりも下の存在だった……少なくとも石勅はそう判断した。誰が正しく、誰が間違っていたとは明確には判断できません。しかし自分なりの価値観ではっきりと言い放った石勅のこの言動。中々にロックで、好きですね。
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三国志ライター センのひとりごと
劉邦と光武帝を比較していたら、気付けば皇帝という存在の話にまで飛躍していました。あんまり他人を比較して批評するというのは良くないことですが、歴史では誰かを引き合いに出してしまって話してしまうのが楽しいことでもあります。
今後もより広範囲に目を向けつつ、皆さんと一緒に三国志の沼にハマっていきたいと思います。とっぷん。
参考:史記 第8高祖本紀 後漢書 光武帝紀 晋書 石勒載記
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