そして孫権の元で活躍したのが陸遜。彼は「陸家」という名門の出身なのですが、実は孫策とその陸家とは浅からぬ因縁があるのです。今回は孫策と陸遜等を輩出した「陸家」との関係について探ってみようと思います。
この記事の目次
陸家とは?
陸家とは揚州の呉地方で「呉の四姓」と言われる名門の一つです。他の四姓は「顧家」「朱家」「張家」であり、いずれも呉では絶大な影響力を誇っていました。
後漢の時代、陸家では「陸康」という人物を輩出しました。かれは廬江太守として周囲の尊敬を集め、父親を亡くしてしまったのちの呉の武将「陸遜」も彼の元に身を寄せていました。
陸遜は陸家の傍系の出身です。
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孫策と陸康の因縁
あるとき、孫策の父孫堅が陸康の親類を何かで助けたことがありました。その為、孫策は陸康と謁見する機会に恵まれたのですが、陸康は直接孫策と会う事はせず、部下に対応をさせたそうです。孫策はそれを「無礼だ」と感じ、陸康を快く思わなかったといいます。
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陸家、袁術と対立する
のちに勢力の拡大を目指す「袁術」が揚州に進出を企てました。袁術は陸康に兵糧の供出を求めました。しかし、袁術は行く先々で無理やり兵糧を供出させたり、領民を飢えさせたりするなどきわめて評判の悪い人物でした。
その為、陸康は兵糧の供出を拒否。袁術と陸康は戦争状態に突入してしまいます。
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袁術軍の一員として孫策は陸康を攻める
当時孫策は袁術軍の一員でした。これは父孫堅亡きあと、その軍を引き継いだ孫策のいとこが主家筋にあたる袁術軍に吸収されたからです。
こうして孫策は袁術軍として陸康のこもる城を攻めることになります。2年にわたる包囲の末に城は陥落。陸康は病死してしまいます。そして陸家は四散してしまいます。こうして陸家と孫策の間には遺恨が生まれたのです。
その時陸遜は陸康の手配で他の場所に避難することが出来ていました。しかし、孫策は陸遜にとって仇といってもいい存在になったのです。
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