三国志といえば、紀元3世紀、魏・呉・蜀の三国が中華の覇権を巡り争った物語です。
これは疑う余地がなく、例えば袁術や遼東の公孫氏を加えて五国志だと言われる事はあれど、魏・呉・蜀から1つの国を除外して二国志だ!という人はまずいません。
しかし、事実は小説より奇なり、正史三国志を著わした陳寿は当初、呉をハブって記載せず、三国志を二国志として世に出そうとした疑惑があるのです。
陳寿二国志疑惑をズバリ!
では、手っ取り早く記事の内容を知りたい人のために記事の要点だけを抜き出して、ズバッと解説しましょう。
1 | 陳寿、孫呉を三国志に含めていない疑惑 |
2 | 陳寿、呉書を著わした孫呉の韋昭を知る |
3 | 陳寿、呉書を丸パクし題名を三国志とする |
4 | 陳寿、締め切りに追われてボロを残す |
5 | 陳寿、ギリ追加で孫呉は歴史に残った |
さて、簡単に説明した所で、ここからはもう少し詳しく解説します。
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孫呉の扱いが軽い陳寿
陳寿の正史三国志では、魏・呉・蜀の扱いは対等ではありません。特に帝王の履歴である「本紀」は武帝紀、文帝紀、明帝紀のように魏書にしか存在せず、呉や蜀には臣下の人物伝である列伝しかありません。
この事から陳寿が三国で、魏を最も重く見ている事が分かります。陳寿が次に重視するのは蜀で、これは陳寿が劉備には先主、劉禅には後主というように敬称をつけている点から分かります。
逆に呉については、孫権が皇帝に即位する西暦229年以降も、権曰くとして諱で呼び捨てです。
もちろん、全く孫呉に対して配慮してないわけではなく、孫権が曹丕より九錫を受け曹魏の後継者となった事を記すなど、配慮を見せていますが、それでも蜀に比較すると扱いは軽いと言わざるを得ません。
この事から陳寿は最初孫呉の伝を編纂する事なく、魏・蜀の二国志で完成させようと考えていた節があるのです。
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陳寿、呉書を知り方向転換
しかし、陳寿が編集方針を改める出来事が起こります。孫呉において韋昭という人物が孫権の命を受け華覈や薛瑩らと共に呉書を編纂していたのです。
韋昭は硬骨漢で、暴君孫晧に
「呉書に親父孫和の本紀を立てろや〜」と命令されると、
「孫和は皇帝に即位していないので本紀はムリムリっす!」と拒否し、頑として筆を曲げなかったほどでした。
そこから孫晧は韋昭を恨み、やがて投獄して処刑。次には華覈も自分の意に沿わない発言をしたとして、遠ざけ病死に追い込みます。呉書は薛瑩の手に委ねられ、ある程度完成したところで西暦280年、孫呉が滅びました。
さて、陳寿の正史三国志の編纂時期は断定されてはいませんが、西暦280年の西晋による中華統一以降とされています。孫呉滅亡と晋の建国は時期が近く、孫呉が滅んで呉書が陳寿の手に渡り目を通す機会が生まれたとしても特に不思議はありません。
ここで陳寿は呉書の内容から引き写せば二国志を三国志に出来ると考え、急遽、ハブしていた呉の記録を加えたと考えられます。
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呉書を大急ぎで丸パクる陳寿
陳寿の正史三国志は、誰に求められたものでもなく、陳寿の個人的な編纂でした。それもただの趣味ではなく、三国志を晋に献上する事で自分の覚えをめでたくして、出世に繋げようという打算があったようです。
それには、晋が中華を統一して祝賀ムードが漂っている間に三国志を献上する必要があり、その為、三国志は紀伝体でありながら、表(年表)や志(天文・礼楽)のようなカテゴリを省いて、数年の短期間で編集されました。前述した通り、陳寿は元々、二国志で行く予定でしたが呉書の発見により考えが変わります。
ザックリ言えば、晋が魏と蜀2国を平らげたという記述より、晋が魏・呉・蜀3国を平らげて中華統一したと書いた方が晋の偉大さが強調できるからです。しかし、時間はありませんので、必然的に呉書の内容をじっくり吟味して必要箇所を取るというわけにもいかず、人聞きは悪いですが、丸パクリという部分も出てきました。
その丸パクの痕跡は呉書の孫破虜討逆伝に残っていて、黄巾賊征伐の命令を受けた皇甫嵩の官職が車騎将軍(実際は左中郎将)と呉書と同じく間違っていたり、黄巾賊の描写が武帝紀のそれより詳しくなっています。
ウィキペディアでは穏当に、陳寿は韋昭の呉書に基づいて三国志呉書を編集したと書いていますが、皇甫嵩の官職の間違いまで丸写しという様子を見ると現在ではパクリとされても仕方がないレベルです。もっとも陳寿に、韋昭の功績を盗もうという意図はなく、とにかく完成を急いでいたという事であろうと推測します。
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