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三国志、本当は二国志だった?陳寿最大のタブーに迫る

2021年4月5日


 

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三国志の地図

 

三国志といえば、紀元3世紀、・呉・蜀の三国が中華の覇権を巡り争った物語です。

 

袁術

 

これは疑う余地がなく、例えば袁術(えんじゅつ)遼東(りょうとう)公孫氏(こうそんし)を加えて五国志だと言われる事はあれど、魏・呉・蜀から1つの国を除外して二国志だ!という人はまずいません。

 

正史三国志を執筆する陳寿

 

しかし、事実は小説より奇なり、正史三国志を(あら)わした陳寿(ちんじゅ)は当初、呉をハブって記載せず、三国志を二国志として世に出そうとした疑惑があるのです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陳寿二国志疑惑をズバリ!

kawausoさんのキングダムがキター!

 

では、手っ取り早く記事の内容を知りたい人のために記事の要点だけを抜き出して、ズバッと解説しましょう。

 

1 陳寿、孫呉を三国志に含めていない疑惑
2 陳寿、呉書を著わした孫呉の韋昭(いしょう)を知る
3 陳寿、呉書を丸パクし題名を三国志とする
4 陳寿、締め切りに追われてボロを残す
5 陳寿、ギリ追加で孫呉は歴史に残った

 

さて、簡単に説明した所で、ここからはもう少し詳しく解説します。

 

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孫呉の扱いが軽い陳寿

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)

 

陳寿の正史三国志では、魏・呉・蜀の扱いは対等ではありません。特に帝王の履歴である「本紀」は武帝紀(ぶていき)文帝紀(ぶんていき)明帝紀(めいていき)のように魏書にしか存在せず、呉や蜀には臣下の人物伝である列伝しかありません。

 

蜀の皇帝に即位した劉備

 

この事から陳寿が三国で、魏を最も重く見ている事が分かります。陳寿が次に重視するのは蜀で、これは陳寿が劉備(りゅうび)には先主(せんしゅ)劉禅(りゅうぜん)には後主(こうしゅ)というように敬称をつけている点から分かります。

 

後悔する孫権

 

逆に呉については、孫権(そんけん)が皇帝に即位する西暦229年以降も、権曰くとして(いみな)で呼び捨てです。

 

魏の皇帝になる曹丕

 

もちろん、全く孫呉に対して配慮してないわけではなく、孫権が曹丕(そうひ)より九錫(きゅうしゃく)を受け曹魏の後継者となった事を記すなど、配慮を見せていますが、それでも蜀に比較すると扱いは軽いと言わざるを得ません。

 

この事から陳寿は最初孫呉の伝を編纂(へんさん)する事なく、魏・蜀の二国志で完成させようと考えていた節があるのです。

 

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八王の乱

 

陳寿、呉書を知り方向転換

水滸伝って何? 書類や本

 

しかし、陳寿が編集方針を改める出来事が起こります。孫呉において韋昭という人物が孫権の命を受け華覈(かかく)薛瑩(せつえい)らと共に呉書を編纂していたのです。

 

正史三国志・呉書を作り上げる韋昭(いしょう)

 

韋昭は硬骨漢(こうこつかん)で、暴君孫晧(そんこう)

「呉書に親父孫和(そんか)の本紀を立てろや〜」と命令されると、

「孫和は皇帝に即位していないので本紀はムリムリっす!」と拒否し、頑として筆を曲げなかったほどでした。

 

孫晧(孫皓)

 

そこから孫晧は韋昭を恨み、やがて投獄して処刑。次には華覈も自分の意に沿わない発言をしたとして、遠ざけ病死に追い込みます。呉書は薛瑩の手に委ねられ、ある程度完成したところで西暦280年、孫呉が滅びました。

 

晋王朝を作った司馬炎

 

さて、陳寿の正史三国志の編纂時期は断定されてはいませんが、西暦280年の西晋による中華統一以降とされています。孫呉滅亡と晋の建国は時期が近く、孫呉が滅んで呉書が陳寿の手に渡り目を通す機会が生まれたとしても特に不思議はありません。

 

正史三国志_書類

 

ここで陳寿は呉書の内容から引き写せば二国志を三国志に出来ると考え、急遽(きゅうきょ)、ハブしていた呉の記録を加えたと考えられます。

 

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呉書を大急ぎで丸パクる陳寿

陳寿(晋)

 

陳寿の正史三国志は、誰に求められたものでもなく、陳寿の個人的な編纂でした。それもただの趣味ではなく、三国志を晋に献上する事で自分の覚えをめでたくして、出世に繋げようという打算があったようです。

 

司馬炎(はじめての三国志)

 

それには、晋が中華を統一して祝賀ムードが漂っている間に三国志を献上する必要があり、その為、三国志は紀伝体でありながら、(ひょう)(年表)や()(天文・礼楽(れいがく))のようなカテゴリを省いて、数年の短期間で編集されました。前述した通り、陳寿は元々、二国志で行く予定でしたが呉書の発見により考えが変わります。

 

三国志を統一した司馬炎

 

ザックリ言えば、晋が魏と蜀2国を平らげたという記述より、晋が魏・呉・蜀3国を平らげて中華統一したと書いた方が晋の偉大さが強調できるからです。しかし、時間はありませんので、必然的に呉書の内容をじっくり吟味(ぎんみ)して必要箇所を取るというわけにもいかず、人聞きは悪いですが、丸パクリという部分も出てきました。

 

黄巾賊を撃破する皇甫嵩

 

その丸パクの痕跡(こんせき)は呉書の孫破虜討逆伝(そんはりょとうぎゃくでん)に残っていて、黄巾(こうきん)賊征伐の命令を受けた皇甫嵩(こうほすう)の官職が車騎将軍(しゃきしょうぐん)(実際は左中郎将(さちゅうろうしょう ))と呉書と同じく間違っていたり、黄巾賊の描写が武帝紀のそれより詳しくなっています。

 

韋昭(いしょう)

 

ウィキペディアでは穏当に、陳寿は韋昭の呉書に基づいて三国志呉書を編集したと書いていますが、皇甫嵩の官職の間違いまで丸写しという様子を見ると現在ではパクリとされても仕方がないレベルです。もっとも陳寿に、韋昭の功績を盗もうという意図はなく、とにかく完成を急いでいたという事であろうと推測します。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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