西暦185年頃に起きたと考えられるクーデター未遂、合肥侯擁立事件。このクーデターの首謀者の1人が沛国の豪族だった周旌です。
しかし未遂に終わったとはいえ、霊帝の廃位を狙った大事件に参加した周旌は、その後についてが一切分からない謎の人物でもあります。今回は、周旌のクーデター加担の動機や曹操との関係、気になるその後について大胆に推理してみましょう。
この記事の目次
濁流派が多い沛国豪族
周旌は出自が沛国豪族という点以外、ほとんど分かる事がありません。しかし、同じく沛国出身の豪族曹操にクーデター計画を打ち明けた人物とは考えられます。
沛国は漢の高祖、劉邦が偉業を興した土地で、股肱の臣である曹参や夏侯嬰の子孫が豪族として居住していました。曹操の父の曹嵩は元々夏侯氏ですが曹氏の曹騰の養子に入ったのも、元々夏侯氏と曹氏で通婚があった事を連想させます。
そんな沛国の豪族は曹騰が出た経緯から、宦官とつかず離れずの良好な関係を持つ濁流派が多く、曹操の父の曹嵩もお金で太尉の位を買う紛れもない濁流派でした。
ただ、全部が全部濁流派という事は無く、黄巾の乱の勃発により党錮の禁が解除され、清流派に鞍替えする豪族も出てきた事でしょう。周旌も、そのような沛国では少ない清流派の豪族だったと考えられます。
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周旌が曹操をスカウトした理由
合肥侯擁立事件の首謀者は、冀州刺史王芬、汝南の許攸、沛国の周旌の順番になっています。
この中で曹操と直接にコンタクトが取れそうなのは袁紹と奔走の友であり、曹操とも幼馴染であったと武帝紀にある許攸、それに同じく沛国出身者の周旌のいずれか?あるいは両方から話が持ち込まれたかも知れません。
曹操の父は曹嵩であり正真正銘濁流派ですが、曹操自身は腐敗した後漢王朝の改革に燃え、済南相時代には、悪徳役人の8割をクビにし邪教の祠を叩き壊すなど、清流派として奮闘している事から、周旌は曹操に好感を持ち打診したとも考えられます。
ただ、当時の曹操は家督を相続したわけでもなく、済南相時代に宦官に睨まれて挫折し、ほとぼりを冷ます為に屋敷に引っ込んでいる状態の豪族のドラ息子でした。周旌は、曹操にさほど期待せず、味方は1人でも多い方がいいとダメ元でスカウトしたというのが真相かも知れません。
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曹操も呆れるkYクーデター
霊帝を廃位して合肥侯なる人物を擁立しようと計画したクーデターですが、残念な事に、曹操が呆れるような杜撰な計画でした。
そもそもこのクーデターには、党錮の禁で誅殺された陳蕃の子の陳逸と同じく恒帝時代から宦官の専横を批判し更迭された方術士襄楷が参加していて、霊帝の廃位はサブであり、メインの目的は新しい帝を据えて宦官を駆逐する事でした。
ここまでなら動機は分からなくないですが、このクーデターは時期が微妙なのです。前述した通り、党錮の禁は黄巾賊に対応するという差し迫った理由で解除され、清流派人士は続々と官職に復帰していました。
中常侍と濁流派の勢いはまだ強いとはいえ、朝廷では外戚の何進が袁紹や袁術のような清流派人士の勢力と結託して、宦官皆殺しの計画を練っています。
クーデターを起こして霊帝を廃位しないと清流派が危ないという差し迫った脅威はなく、どうしてリスキーなクーデターに頼るのか謎なのです。
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中央と連動していないお粗末クーデター?
また合肥侯擁立事件は、王芬や許攸、周旌、陳逸のようなごく一部の人間だけで計画され中央には協力者がいなかった可能性があります。
それというのも曹操はクーデター計画参加を拒否した理由として、過去に主君を廃位しながら賞賛された商の伊尹と前漢の霍光のケースを挙げ
「伊尹や霍光が廃位に成功したのは、いずれも宰相や準皇族の地位にあり、同時に朝廷の人望を得ていたからだ」と断じ、さらに呉楚七国の反乱を例に取り
「諸君の連携は七国の乱と比較してどうか?合肥侯の尊貴は呉楚の諸王に比較して高いのか?総合的に判断して計画を立てているんだろうな?」と疑問を呈しています。
曹操が、許攸や周旌の都合のよい言い分を鵜呑みにするとは考えにくいので、自分でもクーデターの内実に探りを入れたと考えられます。
結果、合肥侯擁立事件が、中央とのパイプもなく豪族の連携も進んでいない楽観論だけで固めた机上の空論だと見抜いて参加を拒否したのでしょう。
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