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若くして亡くなり、曹操は大いに悲しむ
袁家を滅ぼすと、中国北部はほぼ曹操の手中に入り、いよいよ荊州の攻略に曹操は乗り出します。
しかし、その直前、郭嘉は鳥丸からの遠征から帰ったのちに病で急死してしまいます。
曹操は大いに悲しみ、他の武将たちに向かって「諸君は皆、私と同世代だが、郭嘉はとびぬけて若かった。天下を統一した際には後事を託すつもりだったのに、これも天命なのか。」と語ったといいます。
当時曹操は53歳で、側近の荀彧は45歳、荀攸も51歳で、38歳で亡くなった郭嘉はかなり若かったのです。
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曹操、赤壁で大敗してしまい、郭嘉を惜しむ
郭嘉の死後、曹操は荊州攻略に乗り出し、孫権、劉備の連合軍と戦う事になります。大軍をもって戦いに臨みましたが、疫病などに苦しめられ、結果的に大敗し、曹操の天下統一は遠のきます。
敗戦後、曹操は「郭奉孝が生きていれば、こんなことにはならなかったかもしれないな。」と嘆いたといいます。
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陳羣による郭嘉の人物像
怖いほど先の読める切れる男郭嘉ですが、どんな人物だったのでしょうか。正史「三国志」によると「模範的行動に欠く」ところが多々あり、度々高潔な人柄で有名だった「陳羣」に弾劾されています。
また、三国志の著者「陳寿」の評でも「とても優秀だが“徳”が無かった」と評されています。郭嘉の息子「郭奕」は「嫌いな人は草を見るように徹底的に軽く扱う」人物だったらしく、郭嘉もそんな感じの人物だったのかもしれません。
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三国志ライターみうらの独り言
郭嘉はとても優秀な軍師で、初期の曹操を支えていました。もし郭嘉が長生きしていれば、あっという間に孫権も劉備も滅ぼされてしまったかもしれませんね。そう考えると、彼が生きていれば「三国志」は無かった、と言えるかもしれません。
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