「三国志」において暗愚の象徴される蜀の皇帝「劉禅」。そんな劉禅も40年間は弱小国を守ったことから、再評価の機運もあります。そもそも劉禅の「暗愚」「無能」というイメージはどこから来たのでしょうか?
今回の記事ではそんな劉禅のがっかりエピソードをまとめてみました。
この記事の目次
劉禅、皇帝になるまで
劉禅は西暦207年に生まれました。翌年の曹操との戦いで劉禅母子は劉備とはぐれ、命の危機にさらされますが、趙雲の働きによって救い出され、無事に生還します。
劉備が益州と漢中を手に入れ「漢中王」と名乗ると、劉備の後継ぎとして太子になります。223年に父劉備が死去すると、跡を継ぎ蜀の皇帝として即位します。このとき劉禅は若干17歳でした。その後は諸葛亮にすべてを任せて国政を運営することになります。
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劉禅の残念な逸話1:後宮の女性を増やそうとした
劉禅は美しい女性を選び、後宮(妃が住まう場所)を増員、充実させようとしました。
これを阻止したのが「董允」でした。董允は諸葛亮から指名され、劉禅のお目付け役をしていた人物です。
彼は「古来の天子の妃が12人を超えたことはありません。また、費用も掛かります。」と後宮の増員を拒否しています。劉禅は12人以上の妃をもとうとしていた、という事ですね。
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劉禅の残念な逸話2:無能な宦官を信頼してしまった
諸葛亮の死後、蔣琬そして費禕が国政を握りましたが、彼らが存命中は蜀は安定していました。しかし、彼らの死後劉禅は「黄皓」という宦官を信用してしまいます。
黄皓は劉禅に好き勝手にさせることによって政治から遠ざけ、国家の政治を混乱させました。劉禅は贅沢におぼれるようになってしまい、国庫も危機に瀕しました。
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劉禅の残念な逸話3:家臣たちの対立を制御できない
先述した黄皓は自分の意に反するものをことごとく排除しようとしていました。特に軍事を司る「姜維」とは対立し、黄皓は姜維の軍事権をはく奪しようとし、姜維は黄皓を殺すように劉禅に上奏したりしました。
もし優秀な上司であれば、家臣が対立していてもうまい具合に収めるものですが、劉禅は黄皓の肩を常に持ち、姜維のアドバイスも握りつぶしました。しかも姜維に対し、黄皓に謝罪するように言ったといいます。姜維は都にいることが出来なくなり、ますます軍事と内政が混乱します。
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劉禅の残念な逸話4:援軍の要請もためらう
蜀の国の混乱を知った魏は263年、ついに蜀の攻略に乗り出しました。蜀の防衛ラインにいた姜維はこれを察知し、何度も援軍の要請をします。しかし、ここで邪魔をしていたのはまたしても宦官の黄皓でした。
彼は占い師に占わせたところ、「魏の軍勢は来ない」という占い結果が出たのです。黄皓はこれを信じ、劉禅に援軍を送らないように言いました。劉禅も確かめればよい物を、これを信じ、援軍を送りませんでした。これにより蜀の防衛体制の構築は遅れ、結果的に蜀は滅亡してしまう事になります。
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