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姜維、連年の北伐を繰り返す
国政を掌握した姜維は堰を切ったように北伐に乗り出します。費禕が亡くなった253年からなんと5年連続の出兵です。ある程度の成果は上げましたが、魏の体制を揺るがすところまでは至らず、連年の出兵は蜀に大きな負担を与えます。
また、蔣琬や費禕は軍事だけでなく、内政、そして劉禅の監視もしっかりとしていましたが、姜維は軍事だけに集中し、他に手が回りませんでした。そのため、国政は乱れ、劉禅は宦官の「黄皓」を信頼してしまい、風紀も乱れました。
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蜀、滅亡する
姜維は黄皓と対立し、成都(蜀の首都)に戻ることができなくなります。蜀の混乱を察知した魏は263年、大軍で蜀に侵攻します。姜維は天然の要害「剣閣」で魏軍を必死に防ぎますが、魏の「鄧艾」が、前人未到のルートで成都に迫り、劉禅は降伏し蜀は滅亡します。
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費禕の予言通りになる
費禕は「内政に力を注ぎ、人材を待て」と、姜維に話しますが、彼はそれを無視し、内政を試みず、自分の力量だけを頼りにし、結局国を衰退させてしまいました。魏が侵攻してきた際も、頼りになる人材も育っておらず、まさに費禕の予言通りになってしまったのです。
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三国志ライターみうらの独り言
費禕は姜維の野心を見抜き、その暴走を止めることには成功しました。しかし、費禕の死後は姜維はブレーキが全く利きませんでした。もし、魏が費禕が死ぬことで姜維が暴走することを予想していたならば、それはかなりの諜報力があったと言っていいでしょうね。
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