董卓・呂布・関羽の愛馬となったこの馬ですが、よく考えてみると呂布が董卓の下についてから、関羽が敗死するまで30年以上あります。
この間ずっと赤兎馬が戦場を駆けまわっていたとすれば、赤兎馬はとんでもない長生きの馬ということになります。そこで、今回の記事では赤兎馬が本当に長生きだったのか、その真相について考えてみたいと思います。
赤兎馬とは?
赤兎馬とは「正史三国志」「三国志演義」に登場する名馬中の名馬です。「正史三国志」では、赤兎馬に関する記述は登場するものの一言で片づけられてしまっているので、ここでは「三国志演義」での赤兎馬について、赤兎馬が関わるエピソードを見ていきたいと思います。
「三国志演義」によれば、赤兎馬は「一日に千里を走る」という並外れた駿馬であり、元々は董卓が所有していました。しかし、董卓は丁原のもとにいた呂布をヘッドハンティングするべく、赤兎馬を呂布に贈って気を引きます。
赤兎馬を気に入った呂布は養父の丁原を殺して董卓の家臣となりました。
その後、呂布を曹操が滅ぼすと赤兎馬は曹操の手に渡ります。曹操は、劉備を破った時に降した関羽の忠誠を得ようと、関羽に赤兎馬を贈りますが、関羽の劉備への忠誠心は固く、赤兎馬をもってしても関羽の忠誠を勝ち取ることはできませんでした。
関羽が呉の呂蒙に敗れて敗死した後、赤兎馬も食を断ち、自ら亡くなったと言われています。
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赤兎馬の年齢
「三国志演義」の記述を見る限り、赤兎馬は少なくとも呂布が董卓のもとに帰順した189年(中平6年)以前に生れており、関羽が敗死した219年(建安24年)頃まで活躍していることになります。
しかし、1頭の馬が30年以上にわたって戦場で活躍したというのは、どうにも信じがたいことです。というのも、例えばサラブレッドの平均寿命は20〜30年ほどであり、赤兎馬が30年以上も活躍したとするならば、人間で換算して80代・90代に至るまで戦場を駆けまわっていたことになります。こうしてみると、どうにも赤兎馬がそこまで長生きした可能性はなくはないにしても、にわかには信じられないのではないでしょうか。
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「正史三国志」に見る赤兎馬のエピソード
「三国志演義」は「正史三国志」をもとにした物語であり、様々な点で著者の脚色がなされています。この赤兎馬のエピソードも同様に、「三国志演義」特有の脚色が入っているのではないでしょうか。それを確かめるためには、「正史三国志」の赤兎馬についてみなければなりません。
「正史三国志」における赤兎馬の登場シーンはあっさりしており、呂布伝の中に、呂布が「赤兎」なる馬に乗り、袁紹に助太刀して張燕を破った際、「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と讃えられたという記述があります。
また、呂布の乗馬が「赤兎」という名であったことは、『後漢書』呂布伝にも記載があります。つまり、呂布が「赤兎」なる馬に載っていたことは史実だと考えられます。
一方、関羽が赤兎馬に乗っていたという記述は「正史三国志」には登場しません。確かに、関羽が曹操に降伏した際、曹操は関羽に多額の贈り物をして歓心を買おうとした記述はありますが、そこに赤兎馬は登場しませんでした。こうしてみると、関羽が赤兎馬に乗っていたというのは「三国志演義」による脚色という線が濃厚ではないでしょうか。
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実際の赤兎馬の生涯
以上をまとめると、呂布の愛馬としての赤兎馬は史実においても存在したと考えられる一方、関羽が赤兎馬に乗っていたという描写は「正史三国志」には登場せず、「三国志演義」にしか現れません。
従って実際には、赤兎馬は関羽のものとなっておらず、「三国志演義」に見られるような、30年以上にわたって戦場を駆けまわったという一見超常的な活躍も、史実ではなかったと結論付けられます。
実際に赤兎馬が活躍したのは、史実を見るかぎり、せいぜい呂布が赤兎馬を董卓から贈られた189年(中平6年)から、呂布が滅んだ199年(建安3年)の10年ほどだったのではないでしょうか。これであれば、馬の寿命とも矛盾することはありません。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。赤兎馬という存在は、「正史三国志」「三国志演義」の双方に登場しますが、「関羽の愛馬となった」という点は後者の脚色だったことが明らかとなりました。
関羽という武将は、「三国志演義」の主人公格の一人であり、信義を重んじる理想的な人物として描かれています。関羽がいかなる金銀財宝を送られても動じず、曹操から赤兎馬を手に入れてはじめて、「これで主の劉備のもとへとすぐに帰れる」と喜ぶシーンは、まさに「義の人」である関羽の姿をこのうえなく鮮やかに描き出しています。
これは筆者の考えですが、「三国志演義」の著者である羅貫中は、赤兎馬のくだりをあえて脚色することで、「義の人」である関羽の劉備への忠誠心をより劇的に描き出そうとしたのではないでしょうか?
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