「三国志」は後年に「裴松之」という人物によって「注」が付けられました。「注」とは追加の文章の事で、正史に載っていないエピソードが書かれています。
今回の記事はその「三国志」の「注」から「郭嘉」のエピソードと、その元ネタの「傅子」についても見てみましょう。
この記事の目次
正史「三国志」での郭嘉の業績
郭嘉は最初、袁紹に仕えることも検討しましたが、彼の人物に失望し、荀彧の推薦で曹操と会う事になりました。
そこで二人は意気投合、曹操は
「私の大業を成就させるには彼が必要だ」
郭嘉も
「ようやく主君に巡り合えた」
とお互いに絶賛をしています。
その後は曹操の軍師として数々の戦に従軍しています。郭嘉は先の読める人物で、呂布、袁家との戦いで彼らの動きを読み、勝利に貢献しています。
異民族「鳥丸」の討伐にも参加しますが、その戦いの後、38歳の若さで病死してしまいます。その死に曹操は大いに悲しんだ、といいます。
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三国志の「注」での郭嘉
426年ころ、「裴松之」という人物が正史「三国志」に「注」を付けました。これは簡潔な正史の記述に加え、その人物に対する異説などを様々な資料から引用し、三国志の記述に厚みを持たせるものでした。ただ、裴松之本人も語るように信頼できない話も収録されているようです。郭嘉については「傅子」という書物から多く引用されています。
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正史「三国志」には見られない郭嘉
「傅子」によると、郭嘉は若いころから洞察力に優れ、世の中が混乱し始めたときは身分を隠し、各地の有力者と交友し、俗世からは離れた生活を送っていました。その為、世間的には無名な存在でしたが、知識人たちの間では密かに有名な人物でした。
曹操が袁紹に対するアドバイスを求めた際には「公(曹操)には10の勝因があり、袁紹には10の敗因があります」と語り、それは「道・義・治・度・謀・徳・仁・明・文・武」についての二人の違いだと郭嘉は語っています。
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郭嘉の優れた洞察の数々
曹操は劉備を厚遇していましたが、郭嘉は劉備を警戒しており、彼を除くよう曹操に進言しました。しかし、曹操はそれを受け入れず、劉備が裏切った後は郭嘉の進言を聞かなかったことを後悔した、といいます。また、曹操がその劉備を討伐しようとした際には、多くの家臣が袁紹に背後を襲われることを警戒し、反対をしました。
郭嘉は「袁紹は決断力が無いから大丈夫」と判断し、劉備討伐を勧めます。郭嘉の予想通り袁紹は殆ど動かず、曹操は劉備を敗走させることに成功しています。
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郭嘉、若くして亡くなり、曹操大いに悲しむ
郭嘉は鳥丸討伐戦のあと、38歳の若さで病死してしまいます。
「傅子」では曹操の嘆きは尋常ではなく、
「哀しいかな奉孝(郭嘉の字)!
痛ましいかな奉孝!
惜しいかな奉孝!」
と激しく悲しんだ、といいます。
また、「赤壁の戦い」で大敗した後は「郭奉孝が生きていれば、こんなことにはならなかったろうに」と悔やんでいます。
郭嘉の死は、赤壁の戦いの1年前の事でした。
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