名門出身且つ、河北の雄、袁紹。祖の配下と言えば、顔良、文醜という名前のインパクトがあるお二人が有名ですが、決してそれだけではありません。
今回ご紹介するのは郭援もまた、袁紹軍の隠れた勇将です。とは言え、この郭援、本人の勇猛さよりも、その最期の方が色々と有名なのはちょっと寂しい所。そこでこの郭援について、じっくりと見ていきたいと思います。
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郭援の母は鍾繇の姉
さてこの郭援、実は曹操の重臣、荀彧が大好きな鍾繇の甥っ子です。どうやら鍾繇の姉の子らしいので、郭援からすれば鍾繇は叔父さんになりますね。そんな鍾繇は曹操陣営に仕えた重臣中の重臣ですが、郭援は曹操配下ではなく、袁紹に仕えていました。ここで注目して欲しいのが郭援の名前、特に姓です。郭援は賈ク先生……じゃなかった、郭姓ですね。
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袁紹軍の軍師、郭図や郭嘉は血縁者
袁紹軍と言えばこの軍師、と言うべき存在に郭図がいます。郭図は豫州の名士、そして郭援、それから郭嘉もこの豫州の出身と言われています。
基本的にその地方の名士は、その地方で固まって派閥を作ります。だからこそその地方では名士が力を持ち、その力を取り込むために群雄は名士を多く味方に付けるのですが……ともかく、郭援もまた、郭図の同族だったのでしょう。恐らくはその縁から、袁紹に仕えたものと思われます。
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鍾繇が出陣し郭援を迎え撃つ
そんな郭援は、袁紹の死後にその姿を見せ始めます。202年、よりにもよってなタイミングで袁紹死去。この機会を逃がさず曹操が袁家に攻撃を加えます。
ここで袁紹の子、袁尚が曹操の背後を突くべく匈奴を利用し、平陽で反乱を起こさせます。これに対抗するべく派遣されたのが曹操軍からは鍾ヨウ、そして袁尚の方から派遣されたのが郭援。血族の戦いです。
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鍾繇が馬超とホウ徳を袁尚から離反させる
鍾繇は首尾よく平陽を包囲するも、向かってくる郭援の勢いは強く、諸将は怯えます。そして鍾繇に撤退を進言しますが、鍾繇は甥の性格を熟知していました。
「郭援は強情で負けず嫌いな性格なので、我が軍を侮っています」
この時、馬超の父親、馬騰は袁尚と通じていましたが、鍾ヨウは手を回して馬騰を説得。馬騰はこれを受け、鍾ヨウに配下を派遣しました。この際に派遣されたのが、あのホウ徳と馬超です。
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破竹の勢いの郭援
一方、郭援の勢いは正に破竹。平陽に至るまでの道のりで各地の城をどんどん降伏させて行っていたのですが、途中で絳の賈逵が籠城を選択します。これを猛攻によって攻める郭援、ここで絳の長老たちは「賈逵を殺さないこと」を条件の降伏を申し入れます。
それを受諾した郭援、名将と評判の賈逵を迎え入れようとしますが「賊相手に頭など下げるものか!」と郭援を罵倒。
怒った郭援はこれを殺そうとするも長老たちが猛反発し、部下から宥められたので中断。その間に賈逵は郭援の進軍を妨害する策を立て、一週間も足止めを受けてやっと郭援は平陽にたどり着いたのです。
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