三国志演義では序盤の敵役の一人、呂布。正に天下に万夫不当、かつての覇王・項羽にも匹敵されると言われた猛将中の猛将。
しかし、その呂布が率いた呂布陣営の武将たちにも勇将、猛将揃いであることは皆さんもご存知の通り。ですがその配下武将たち、呂布を含めてかなり明暗が、いいや、対比がされている?
今回はそんな、呂布陣営の皆さん(一部)について考えてみましょう。
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曹操に命乞いするが猛将の呂奉先
さあ一番手はこの人。正に万夫不当、三国志演義ではかなり脳筋のように描写されてしまっていますが、その勇猛果敢さは正史でも変わらず、寧ろ正史ならばそこまで脳筋ではないからこそ恐ろしい。
ただし群雄割拠の時代とは言え、あっちこっちで裏切りを繰り返してしまったこと、またよりにもよってその裏切った相手に劉備がいたこと、
最期に曹操に対して命乞いのような真似をしてしまったことから後世では「裏切り者」のイメージが強くなっていますが、猛将の一人であることは間違いがありません。
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曹操から何故か呂布に転職、陳公台
呂布陣営の軍師と言えばこの人、という人物。曹操から呂布に鞍替えをし、そして最期まで曹操の元に戻ることはないまま歴史から消えました。何気にこの陳宮が曹操から離れた理由が分かっていないのですが、その最期、特に曹操に惜しまれての別れは名将と言ってもいい潔さを感じます。
「呂布が私の言うことを聞かなかったから負けたの!(超意訳)」はちょっとしたご愛敬でしょうかね。
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冷たくされても呂布に尽くす浪花節 高順(字不明)
高順は字が不明とか言う前に、呂布軍で活躍し始める前まで不明と言う武将。しかもその活躍期間も短いとあって、中々呂布軍でも注目度合いが低い武将と思います。
ですがその活躍は他に負けず劣らず、最期まで主を違えることなく、また呂布に冷遇されてもそれを恨むことなく、主に最期まで付いていったその姿は正に武人。間違いなく、呂布軍の名将、です。
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唯一曹操に助けられた豪傑、張文遠
後の活躍が尋常じゃない曹操配下、魏の名将として華々しく歴史に残った張遼。
何気に呂布と同じく主を変えている(状況が状況なので……)のですが、正史、三国志演義両方で裏切り者というイメージは一切なく、凄まじい活躍と武勇とが印象強い名将ですね。張遼について話すと三日三晩かかるので別項で。
さて彼ら呂布陣営の有名どころさんたち。実はその振る舞い、立場、行動、これらに対比要素が強いことはお気づきでしょうか?
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呂布・高順・陳宮は仲良く喧嘩した間柄
呂布のイメージに「裏切り者」が根深いと前述しました。実際に色々な要因があったとはいえ、呂布は様々な裏切りを行っています。しかしその呂布にずっと最期まで付いていったのは高順です。高順は呂布にどのように扱われても決して怨むことなく、付き従いました。
また陳宮も「負けたのは呂布のせいだ」と言いながらも、結局は呂布の配下として終わりました。この対比、熱いですよね。
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