三国志演義の劉備は仁徳の人であることがクローズアップされ、かなり主人公風と言うか、時に人が良すぎてイライラしちゃうこともあったりなかったり。
しかし実際の劉備は確かに人を惹きつける魅力がありますが、乱世を生き残ってきただけの目のよさ、覚悟を決める時は覚悟を決めて行動できる人物だと思います。
さてこの三国志演義の劉備のキャラクター付けなのですが……実はモデルがいた?
今回はそのモデルとなった可能性がある、劉虞についてお話しましょう。
この記事の目次
由緒正しい光武帝の長男の末裔「劉虞」
さて劉虞という名前から分かるように、劉虞は漢王朝の末裔の一人です。それも結構はっきりとしており、光武帝の長男の末裔であり、祖父も父もその血筋に違えず、良い地位に付いていました。
劉備が漢王朝の末裔の一人とは言うものの実は良く分かっていない中で、劉虞は割ときちんとした宗室の末裔、というのが面白い(?)所でしょうか。
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戦争を出来るだけ回避する平和主義者
そんな劉虞は、善良な人物として知られています。彼は漢王朝の末裔の一人ではありましたが、良く民のことを思って領を治めていたと言います。また争いを嫌うというか、避ける傾向のある人物でもありました。
それが分かるのが張純が烏丸族の手助けで反乱を起こした時に、彼らを反乱軍として滅ぼすのではなく、あくまで懐柔策を取り入れたことで相手を帰順させています。この一件で劉虞は出世することになりました。
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袁紹に皇帝に即位するように勧められた事も
その人望が分かるのが、袁紹とのある話。反董卓連合軍によって董卓が洛陽を逃れていった際に、袁紹は劉虞に皇帝になってはどうかと言いました。しかし劉虞は自分の身には過ぎたことであるとこれを断りました。
袁紹の目的がどこにあったかは分かりませんが、嫌われている人を皇帝とはしないと思いますので、皇帝にして良い、と判断できる人物だったのでしょう。ただしここから劉虞の運命は暗くなっていきます。
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異民族対策で好戦的な公孫瓚と対立
ここで公孫サンと劉虞の対立が始まります。公孫サンと劉虞の異民族への対策方法は真っ向からぶつかり合い、折しも公孫サンは袁紹に敗北。今の内に公孫サンと戦おうとする劉虞でしたが、家臣から
「公孫サンは頼りになるから小さいこと(劉虞の異民族への贈り物強奪)には目を瞑りましょう」と言われ機会を逃し、後に10万の兵力を集めて戦おうとした際に「勝算の見通しは立ってないから武威を示して降伏させましょう」という進言を士気低下をさせようとしたものとして部下を処刑したことで軍が混乱、よりにもよって公孫サンにバレて立てこもりをされてしまいます。
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公孫瓚の人質作戦に敗北し殺される劉虞
ここで民に犠牲が出ることを好と「できなかった」劉虞は「余人は傷つけないように、殺すのは伯珪一人」という命令を出しました。もちろん民衆を盾にされて立てこもりをされているので劉虞の軍は上手く動けず、公孫サンから反撃を受けて敗北。
劉虞はこの後に「皇帝になれるほどの人物だったのだから雨を降らせるように、できなければ死刑」というどこかの小覇王のような取引を突き付けられ、最終的に処刑されました。ただしこの劉虞の処刑により袁紹と民衆を怒らせ、公孫サンも歴史から姿を消すことになるのでした。
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