陸遜を何よりも有名にしたと言えば、夷陵の戦い。この夷陵の戦いで諸将をまとめ、劉備を打ち破った陸遜は、名実共にその名を知らしめます。
もちろんそれ以前からも、呉のために多方面で働いているのですが……不幸なことに、陸遜のいた呉では後に「二宮の変」が起こってしまいます。
ではどうすれば良かったか?
どういう風に立ち回るべきだったか?
それはちょっと答えが出ないけれど、他の人ならどうでしょう?
ということで、今回はそんな陸遜のとりかへばやをしてみたいと思います。
割と苦労している
陸遜は父親を幼くして亡くしました。陸遜に限りませんが、この時代の武将たちは幼くして父親を亡くす人が多く、時代の苛烈さを感じます。陸遜は従祖父である陸康に引き取られて育てられることになるのですが、この陸康にある日袁術さんからお手紙が届きます。
「兵糧ちょうだい」というお手紙だったのですが、これを陸康が拒否したために、返礼として送り込まれたのが孫策でした。二年ほどの籠城の後、降伏した陸康は失意の内に亡くなり、一族も離散するという酷い憂き目にあったのです。
この時、陸遜は他の子供たちと疎開させられていたので助かったということですが、まだまだ幼い陸遜少年が孫家にどのような感情を持っていたかは気になるところです。
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関羽戦サポート
当時、陸遜の評判は陸績と顧邵には及ばないまでも、中々の好評価であったと思われます。任された仕事をしっかりと仕上げ、反乱もきちんと鎮圧。そして山越平定の功績により孫権は陸遜の評判を聞きつけ、姪っ子(孫策の娘)を嫁がせました。
ここから陸遜もどんどんと昇進していき、荊州の関羽とにらみ合う呂蒙に献策をし、関羽の油断を誘って荊州攻略を成功させるのです。この関羽への勝利が、後々の呉と蜀、更には魏との関係を決めてしまった気もしますが……。
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劉備に勝利!
222年、時は……いえ、劉備が動きました。関羽の仇を何が何でも討とうとしたのか、漢中王になって真っ先に行われる呉征伐。この迫りくる劉備に孫権が相対させたのが、陸遜です。
大都督となって呉の諸将を指揮することになった陸遜ですが、そこで簡単に陸遜の言うことを聞いてくれるはずもなく。しかしそれでも陸遜は奮戦し、火計によって劉備軍を尽く討ち果たします。これには諸将も陸遜を評価するようになり、更にはその後の魏も追い返すのですが……その陸遜の晩年は。
と、ここで二宮の変を語ると長くなるので、それは別の項で。早速陸遜のとりかえばやをしてみましょう!
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case1:諸葛亮
やはりまず名前を挙げたいのは、陸遜同じく伝が単独で立てられている人物、諸葛亮でしょうか。割と正確に似通った部分を感じる二人、とりかえばやすると何気に諸葛の龍虎が孫呉に大集合するのも見どころ!
個人的には孫権は諸葛亮とは上手くやれなさそうですが、陸遜は劉備とはもしかしたらそこそこ良くやれるのでは……?少なくとも蜀だと後継者問題に巻き込まれることはないかな、というのは高ポイントかもしれません。
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