関羽の命運を決めた、樊城の戦い。ここで呉に背後を突かれた関羽は撤退、その後、捕縛されて処刑されました。
この関羽が劉備に任されていたのが荊州であり、この荊州統治を巡って関羽と孫権、呉は元から揉めていて、それが後の樊城での戦いで関羽側に付かなかった理由、とも言われます。しかしこの荊州問題、とてもややこしい。
そこで一度、拙いなりにこの荊州問題をまとめてみようと思います。
この記事の目次
孫権「これからどうしたらいいかな?」
さてこの始まりはそもそも魯粛と孫権の会話からです。
まず魯粛は、嘗ては徐州にいました。この頃、とある一件で知り合った周瑜と親睦を深めるのですが、魯粛自体は曹操や袁術からお誘いもあったようです。
まあ色々な事情があって、そして周瑜の熱心な勧誘もあり、魯粛は孫権に仕えるようになります。孫権は一目で魯粛を気に入り、改めて魯粛を招いて、酒宴を開いたと言います。そして魯粛にこれからどうしたらいいか尋ねてみました。
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袁術「百里くらいある」
「皇帝になるべきです」おおっとこいつぁびっくりだぜ!!どこかのハチミツ皇帝と同じ思想家か?と思うかもしれませんが、魯粛はきっぱり真面目です。
因みに要約すると、漢王朝の復興はもう無理だし、曹操に対抗するためにも荊州(南群まで)を抑えて、長江を堀代わりに戦って皇帝名乗って天下を統一しようぜ!ってことです。
これには流石に張昭おじいちゃんが「あいつあたまおかしいから信じちゃダメ!(意訳)」と言いましたが、孫権はこれ以降、ますます魯粛を信用するようになりました。
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困難を乗り越える
ここで曹操が袁紹と戦っている間に荊州を手に入れようとしましたが、手を拱いている内に袁紹死去からの曹操南下。そしてここで始まるのが赤壁の戦い、殆どの呉将が降伏を主張する中で、周瑜と魯粛は抗戦を主張。
孫権は抗戦を選び、赤壁の戦いでみんなの力を合わせて勝利!
見事勝利して魯粛を出迎えた孫権と魯粛のやり取りは、正に感動もの(ですが割愛)
改めて南軍攻略に乗り出した孫権らは、多大な犠牲を出しながらも何とか南郡を手に入れたのでした。
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劉備「荊州かーして」
そこにやってきた劉備が荊州をちょうだ……じゃなかった、あくまで一時的に貸してくれないかなーと言ってきたのです。
まぁそんなのとんでもねぇと怒る諸将に、魯粛は「今は貸し与えて、共同して曹操に当たるべき」と言いました。
因みに周瑜は「劉備は懐柔して関羽と張飛の仲を裂いて、二人は私が部下にする(意訳)」という手段を提案しましたが、孫権は最終的に魯粛の案を採用しました。
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