はてさて、皆さんは人中の呂布に娘が一人いたことをご存知でしょうか。ゲームなどでは父親譲りの武勇を持つ娘「呂玲綺」としてクローズアップされていますね。
筆者もこれはこれでだいすき!なのですが、それはそれと置いておくとして、実際の呂布の娘はどうなってしまったのか?
個人的に気にかかりましたので、その後を少しだけ、追ってみたいと思います。
この記事の目次
三国志演義での呂布娘
さてまずはちょっと三国志演義から。三国志演義では呂布の娘は、正室、厳氏との間に産まれた一人娘です。色々あって袁術の息子との婚約を交わされますが……その婚約はかなうことなく。
それが良かったか悪かったかはまあ置いておくとして。籠城戦の最中で袁術に援軍を出してもらうため、この娘を呂布が背負って出陣するも、劉備軍に攻撃されて引き返す……などの場面が盛り込まれています。
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呂布が処刑された後、曹操に捕らわれ許に送られる
その後、呂布は様々な要因が重なって敗北。曹操に命乞いするも受け入れられず、逆に命乞いをする呂布を張遼が一喝。
そして曹操を罵って自ら首を述べようとするも、逆に関羽や劉備に「張遼は生かしとくべき」と言われて曹操はこれを承諾、後の合肥の孫権の悪夢に……話がそれましたね。ともあれ、この際に呂布の妻子は許都に送られたとされ、娘が出てくるシーンはありません。
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正史三国志での呂布娘
はてさて、では正史では呂布の娘はどこで出てくるのでしょう。
それは来たる197年、袁術は皇帝になりました。ここに須らく諸将は首を垂れて袁術皇帝に忠義と忠誠を誓っ……たりすることはなく。
当然ながら皇帝はまだ生きてるので……簡単に言うと諸将がそう簡単に袁術を認めることなんかなく。周囲を敵に回して皇帝になったのですが、ここで袁術は呂布に目を付けた!
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呂布娘、袁術の子との婚姻話で急浮上
ここで袁術、徐州を劉備から奪っていた呂布に婚姻の話を持ち掛けます。おそらくこれが呂布の娘、そして袁術の息子との婚姻話でしょう。が、呂布はこれを断りました。これには呂布と袁術とが仲良くしては困る、陳珪の作戦が背景にあったと思われます。
最終的に198年になると袁術と呂布とは同盟を結ぶことになるのですが……。呂布が当初、断ったのには理由があります。
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