三国志には数多くの英雄が登場しますね。今回は、その中の一人……というには、やや立場が難しい存在である、馬岱とその最期、死因についてお話ししたいと思います。
さて、皆さまはどんな情報や媒体から、馬岱という存在を知ったのでしょうか?
因みに筆者は三国志自体を横山三国志から知ったので、そこが全ての入り口だったと言えるでしょう。その上で語りたい馬岱とその死因、そしてその解釈と様々な視点。述べさせて頂きたいと思います。
この記事の目次
馬岱とはどんな人?何をした人なの?
さて、馬岱についてどんな人なのか、正史三国志を見ていきましょう。馬岱に付いては伝はなく、馬超の伝でその存在を知ることができます。また、魏延の伝においても、馬岱はその名を知ることができます。
まず馬超の伝では222年の馬超の死に際の遺言にて、「私の一族200人余りはほとんど曹操に殺されてしまいましたが、従弟の馬岱のみが生き残っています。彼を馬氏の祭祀を守らせる者として陛下にお預けします」と劉備に充てられた言葉があります。更に、その馬岱の官位は平北将軍、陳倉侯にまで昇ったと記されています。
そして魏延伝では、234年に魏延と楊儀の争いのち、逃亡した魏延の軍を楊儀の命令で馬岱が追撃、魏延を殺害したとあります。正史三国志における馬岱の記録は、これが全てと言えます。
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馬岱の性格や容姿は?武将としてどんな能力があったの?
なので馬岱については、これらの情報から推測をすることが多くなるのは必然のこと。
例えば容姿であれば、馬一族ということもあって後漢時代に後宮に入った明徳馬皇后がいるので、血縁関係があるなら容貌は整っていたのでは……?
馬超が後継者として指定するのだからしっかりしていたのか……?楊儀に魏延の追撃を任せられたのだから武将としても優れていたのでは……?残念ながら、これらはほぼ、推察の域をでないのです。
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馬岱の関連する人物との関係性と、戦における評価
ここでもう一度、馬岱の関連する人物としてまずは馬超。馬超と馬岱は、従兄弟になります。馬超が馬岱を「従弟」としているので、馬岱は馬超よりも年下であったのでしょう。
ですが、馬超にとって数少ない生き残りの血縁者でありながら、馬超の戦に馬岱は出てきません。馬超の死に際にやっと、その名前が出てくるのです。では馬超が頼りにできないほど武勇には劣っていたのか?
それは楊儀が(よりにもよって)魏延の追撃に向かわせているので、それも考えにくい話です。この一件から一つの解釈として、馬超と馬岱は「親子ほどに年齢に差があったのではないか」ということが考えられないでしょうか。
関羽の子の関平、曹操配下の典韋のように、字が不明な武将がいますが、これらも個人的には「幼かった」ことが一つのファクターとして考えられると筆者は思っています。関係ないけど典韋がかなり若い説は結構イケるのでは?とも思っています。へへ。
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三国志における馬岱の役割
さて話を馬岱に戻しましょう。三国志における馬岱の役割とは何か。それは、正史三国志のみに注目すると、
「馬超の後継者(馬家の後継者)」
「魏延の始末」
この二点が最大の特徴的な役割であり、同時に、馬岱にはこれ以上の役割は記録されていません。仮にも馬超の後継者であったのなら、また最終的な地位も加味するとそこそこ記録されて然るべきなのに、寧ろ馬岱は殆ど記録されていないと言っても過言ではないのです。
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馬岱の活躍の場とも言える、三国志演義
そして正史三国志には殆ど活躍はないけれど、しっかりと有名人物の関係者として名前が記録されている人物。こういう人物は前述した関平然り、とんでもない活躍の場が与えられる時があります。そう、みんな大好き三国志演義ですね!
三国志演義での馬岱、曹操の馬一族虐殺から逃走、生きて馬超に仕える、その後は蜀の忠臣、諸葛亮との苦肉の策、魏延への殆どスパイのような活動、そして
「ここにいるぞ!」
この言葉は馬岱の最大の活躍の場ともいえるのではないでしょうか。面白いことに、正史三国志の記録を膨らましに膨らましたのが、三国志演義での馬岱であり、ある意味、馬超よりも破格の扱いを受けている、と言えなくもない存在となっているのです。
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馬岱の死因とは?様々な考察と説
ここで、主題の一つでもある馬岱の死因について、お話をしましょう。馬岱の死因の主流、というか、そう考えられる説に「病死」があります。
これは晋書、高祖宣帝紀にある記録で「235年に馬岱は兵を率いて魏に攻め込んだが、牛金の軍に敗れ千余りの損害を出して退却した」というものがあります。ここで打ち取られていたら「戦死」とはっきりするのですが、馬岱は「退却した」となっていますね。そしてここから馬岱の記録は一切無くなります。このため「この戦で何らかの負傷をしたため、それが元で病死したのでは?」という推察がされていたのでしょう。
しかし、それならそうで病死したと記録されるのでは?馬岱の死因は、実は秘匿されていたのでは?正史三国志の記録者が陳寿であることから、その死因が記録できないものとなると……考えられるのはもう一つ。馬岱の死因、暗殺説。
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馬岱の死因と、当時の時代背景を考えてみると……
と、ここでもう一つ考えたいのが、馬岱の最終的な記録が晋書にされているということ。また馬岱の暗殺が考えられるとするなら、馬岱はそもそも斜陽の蜀にその身の置き場がないと感じていたのではないか?ましてや、既に時代は魏……いや、晋の時代。
このことと最終的に魏の武将である牛金との戦闘、ここから推測されるもう一つの道として、馬岱は魏に降伏したのではないか?ということも考えられると思います。こちらもこちらで、蜀から魏に下ったというのは、蜀としてもあまり記録したくない……その理由も理由だし……また、当時の魏の国力をもってすれば、馬一族を受け入れることは容易く、同時にさほど重要でもなく、そう言った意味から、晋書にもそれ以降は記録されなかったのではないでしょうか。そういう意味や時代背景も踏まえ、ここに馬岱はしっかり生き残って血筋は繋いだ説、考えられると思いますね。
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三国志ライター センのひとりごと
最後に馬岱の降伏説に付いてのひと押しに「山西通志」での馬岱の逸話があります。これによると河東郡大陽県を東へ45里の地点にある清渓の近くの石砦の壁に、馬岱将軍、と刻まれているという話です。ここで馬岱は馬超の従弟で、早くに父を亡くして別の名前で馬飼いを生業としていたが、後に馬超と合流して馬一族となって馬岱と名乗ったと……このような話はどこから生まれたのか?
考えられるのは、馬岱を良く知るもの、馬岱の一族ではないでしょうか。
清代に編纂された「山西通志」ですが、この記録を残した者がいるとするならば、馬岱はその生を何とか全うして、そして後世に誰かがそれを伝えようとした……少しロマンと想像に傾きましたが、そもそも馬岱が最も名を知らしめると言えば創作である三国志演義。こういう考察もまた良いものであると、筆者は思いますね。どぼーん。
参考:蜀書馬超伝 魏延伝 晋書高祖宣帝紀 山西通志
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