「西楚の覇王」と呼ばれる項羽。漢を建国した劉邦と天下を争ったことで有名な英傑です。そんな項羽の「覇王」という称号を譲り受けたのが、呉の小覇王・孫策です。
孫家の命運を託された少年・孫策
反董卓連合軍の中でも異彩を放っていた父・孫堅。董卓はその勢いを恐れ、洛陽を焼き払い、遷都までして長安に逃げていくほどでした。しかし、そんな孫堅の死はあっけないものでした。袁術は孫堅に荊州・襄陽の劉表を攻めるように命じます。孫堅はその期待に応えて劉表軍の大将・黄祖を追い詰めますが、峴山に一人でいたところを黄祖の兵に射殺されてしまいます。このとき、長男である孫策はまだ17歳でした。
袁術の元で牙を研ぐ
父・孫堅が董卓討伐に奮闘していたころ、孫策は母や弟たちと楽しく暮らしていました。孫策は江淮一帯で名をはせるほどの少年でした。周瑜もこの名声に惹かれて孫策とまみえ、断金の交わりを結びます。父・孫堅の死後、孫堅軍は袁術軍に吸収されていました。孫策は孫家を復興するために、袁術の元で静かに牙を研ぐ日々を過ごすことになります。
袁術への不満を募らせる
袁術軍の傘下に下った孫策でしたが、袁術に孫堅軍の返還を求めて1000人ほどの兵を得ます。たったの1000人ですが、孫堅軍の名将が名を連ねていました。江東の人々も孫家が復興したと大喜び。孫堅の忘れ形見ともいえる彼らと共に、孫策は次々と武功を重ねていきます。
そんな孫策の活躍を見て袁術も「孫策が自分の息子だったなら…」とため息をつくほど。しかし、目まぐるしい成長を遂げていく孫策に何を思っていたのか、袁術は孫策の武功に見合う褒賞を与えません。やれ九江太守にするだの廬江太守にするだの言っては、何やかんや理由をつけて約束を反故にします。
そんな袁術に嫌気が差していた孫策は、優秀な人材を集めようと奔走します。張紘、張昭をはじめとする智将や、蒋欽、周泰をはじめとする武将の面々。孫家を興す立役者たちが揃い始めます。
袁術軍からの独立、江東支配の宣言
袁術からの独立の機会を虎視眈々と窺っていた孫策。袁術が劉繇と揚州支配をめぐって対立を深めているのを見て、叔父・呉景の応援に向かいたいと袁術に伺いを立てます。袁術は何の疑いもなくそれを許します。まさか1000人ほどの軍勢が独立を宣言するとは思ってもいなかったのです。
しかし、孫策が呉景のいる歴陽へ到達する前に、孫策軍は5000人以上に膨れ上がっていました。更に、孫策は歴陽で周瑜と再会を果たします。孫策は破竹の勢いで劉繇軍を退けていきました。途中で太ももに矢を受けますが、そのことで孫策が死んだと勘違いした敵を伏兵でもって撃退。次々と劉繇に属していた県を攻略していきました。
そんな折、孫策は劉繇軍の武将であった太史慈に出会います。太史慈は孫策に一騎打ちを挑み、孫策もこれに応じました。激しい打ち合いを繰り広げたものの勝負はつきません。このとき孫策は、太史慈の力を見抜き、配下に迎えたいと考えたといいます。しばらくして勝機が無いと見た劉繇は逃亡。孫策は劉繇が去った曲阿を拠点に勢力を強めていきます。袁術に睨まれないように、袁術に兵を返すなどしていた孫策ですが、裏ではしっかり独立の準備を進めていました。
親友・周瑜も丹陽に帰り、孫策支配の礎を作るために奔走。呉郡太守・許貢、会稽郡太守・王朗を優秀な将たちの力を借りて攻略し、抵抗を続けていた太史慈をも打ち破ってその配下に加えます。ぶくぶくと膨れ上がっていく孫策の勢力に恐れを抱いた袁術は、袁胤を丹陽太守に任じますが、孫策は袁胤を力づくで追放。ついに悲願の独立を宣言します。
これを受け、袁術の元に返されていた名だたる将軍たちも孫策の元に集結。周瑜は呉の功臣として名を残すことになる魯粛を連れて帰ってきたのでした。
躍進するも、恨みに倒れる
その後も優秀な人材を登用することに奔走し、次々と領土を広げていった孫策。しかし、嵐のような苛烈さは人々に受け入れられず、孫策の支配に抵抗する勢力が乱立。そこで、孫策は大粛清を強行します。あまりの蛮行にかつての呉郡太守・許貢が「孫策は項羽のようだ」と朝廷に上奏しようとしていることを知った孫策は、許貢も粛清してしまいます。
江南を平らげ、曹操とも姻戚関係を結び、その曹操をも退けんとする前途洋々の孫策でしたが、その死は突然訪れます。ある日、許貢の客人と称する3人組に長江のほとりで取り囲まれます。孫策は3人とも自らの手で葬りますが、戦いの最中に一本の矢をその頬に受けてしまいます。
これにより死を迎えることを悟った孫策は、弟である孫権を後継者に指名。臣下の言葉によく耳を傾け、江東を守るようにと孫権に言い残し、息を引き取りました。
26年という短い人生を彗星のように駆け抜けた小覇王・孫策。彼がいなければ、呉という国は存在していなかったかもしれません。
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