魏の軍師にして、数代の魏皇帝に仕えた人物。更に自らは晋の高祖とされる人物、それが司馬懿です。野心家だの、いいや忠臣だの、さてはて恐妻家だの多彩な評価をされている司馬懿の死因について、今回は話していきたいと思います。
また司馬懿の気になる死因のみならず、司馬懿が何をしたか、どのような最期を迎えたか。様々な司馬懿について、お話したいと思います。
この記事の目次
司馬懿って何した人?三国志に司馬懿は殆ど出てこない!?
ではまずは司馬懿がそもそもどんなことをしたのかについて。もちろん司馬懿が何をしたかは三国志の司馬懿伝に……ありません。皆さんもご存じの通り、司馬懿について記述は基本的に晋書に記されていて、文帝紀に明帝紀、それも曹丕の文帝紀ではなく、曹叡の明帝紀の方に主に業績は載せられています。
主に呉と戦い、更に孟達、公孫淵などの討伐任務で活躍しています。因みに冒頭で司馬懿と言えば軍師、という言い方をしましたが、司馬懿の役職を正しく言うと軍師ではなく、大将軍です。この大将軍に昇進したのも、曹叡の時代になってからですね。
司馬懿の家系は?司馬懿の妻の名前は?
司馬懿の家系、家族たちも少し見ていきましょうか。司馬懿は河内郡温県孝敬里出身、楚漢戦争期の十八王の一人である殷王司馬ゴウの12世孫にあたる人物……そう、司馬懿は名家のご出身なのです。しかしそんな名家だけに父親である司馬防は子供たちを厳しく育てました。
この司馬防、実はあの曹操とも浅からぬ関係を持つ人物でして、また兄の司馬朗は董卓の暴虐を察し、直接面と向かって引き留められるもしっかり逃げぬいた人材。
また晋書の記録ではあるものの、妻である張春華もかなりのエキサイティングな逸話を持つ人物です。こちらは少しばかり長くなりすぎるので、今回は割愛させて頂きましょうか。
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司馬懿はいったいどれくらいの年齢まで生きたのか?
司馬懿が亡くなったのは251年、亡くなった時の年齢は72歳でした。これは当時を鑑みても結構な長生きです。因みに彼の父親である司馬坊は219年没で71歳、兄の司馬朗は流行り病で早世したものの、弟の司馬孚に至っては272年に死去、その年齢は93歳とかなりの高齢でした。
しかし息子の司馬師は48歳、司馬昭は55歳で亡くなっているので、司馬一族全てが長寿である、ということでも亡かったようです。……何だかんだあっても甥より長生きした司馬孚が凄まじいのですけれども。
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司馬懿の死因は老衰?病死?それとも
晋書の記録を見ると、司馬懿は251年の4月に都に戻ったけれど、6月に病になったとあります。その後、八月に亡くなっているので、病が快癒した、ということはなかったのでしょう。もしくは大分高齢だったことを考えると、病死というよりも寿命であった、という可能性もありますね。そうしてもう一つの可能性が……なんと祟り!
これは晋書の記録で「夢賈逵、王淩為祟」とあります。簡単に言うと夢に賈逵、王淩が出てきて祟られた……という感じですが、実はこの二か月前に司馬懿は王淩らの企てた乱を鎮圧し、王淩は自害しました。
この一件で呪われて……?というのは、少々信ぴょう性薄いというか、それで呪われて死ぬなら最も他にも色々出てく……コホン、あり得そうな線としては、老齢となった司馬懿はこのことを気に病んでいて、という方が可能性としては大きいでしょう。因みに賈逵は賈充の、つまり後々出てくる賈南風のおじいちゃんになります(豆知識)。
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司馬懿ってそもそも誰の軍師?
まあ司馬懿はそもそも軍師というような職ではなかったのですが。この疑問には様々な答えがあるでしょう。
一つは彼を召し出した曹操。
四友の一人とされた曹丕。
この人の代で一番活躍して出世したと言える曹叡。この辺りが主だった司馬懿の仕えていた人物、という訳でして、ここからは解釈が分かれる所です。ですが筆者的には、司馬懿が仕えていたのは曹丕、という考察ですね。
司馬懿の死と、皇帝の死
その考察の大きな要因が、司馬懿の墳墓です。司馬懿の死後、その遺体は遺言によって首陽山に薄葬で埋葬されました。更に司馬懿は「その死後、誰も合葬してはならない」とも付け加えています。そしてこの首陽山には、曹丕の陵墓が既にあったのです。
曹丕は、自分の墳墓に妃の合葬、親族の陪葬を禁じました。古代より滅びぬ国なく、そして滅びた国の主はその墓を荒らされる……これを自ら、そして祖へのはずかしめであると断じた曹丕は、薄葬を望んだのです。そしてそこに、司馬懿は自らを埋葬するように遺言しました。
司馬懿のみかた司馬懿って誰の軍師?
単純に考えて曹丕が生前「いっしょの墓に入ろうぜ!」なんて司馬懿に約束していたとは思えないので、これは司馬懿の意思として考えられます。するとどうして司馬懿はこんな風に語った曹丕の墓の傍に、自らも埋葬させたのでしょうか。何を思って、先に亡くなった、それも二代前の主君の傍らに埋葬させたのか。
忠義でしょうか。贖罪でしょうか。それとも……最後の最期でちょっとした嫌がらせ?それを考えると、司馬懿が仕えていたのは……何だかんだであの魏の癖の強い、果物皇帝ではなかったのかな、と思った次第です。そうなると最後の司馬懿が見た悪夢、彼の死因は、どこか後悔が滲んできたものとも言えるのではないでしょうか。
三国志ライターセンのひとりごと
これは個人的な幻覚の類ですが、司馬懿は後々の息子たちの簒奪を予見していたのでは。そうなると自らの……意図したものではないとはいえ……不義不忠を、仕えていた主に罰してほしかったのではないか。だからこそ最期の遺言ではないか、と考えてしまう筆者です。
まあそれを言ってしまうと甥っ子たちのやらかしで晋書の方に記録されてしまった司馬孚の方がよっぽど恨み言の一つも言いたくなるんじゃないかと思いますけどね!(余韻)悪だくみもするし、野心もあるし、それでも確かに忠義もあった。そんな感じの司馬懿が好きだな、と思う筆者でした。どぼーん。
参考:晋書帝紀第1 宣帝三国志魏書文帝紀
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