今回は劉禅の死因と、三国志の裏側の存在に付いてみていきましょう。長きにわたって三国志ファン、というよりは蜀のファンの皆様から厳しい評価をされてきた劉禅ですが、近年ではその評価は変化してきています。
時代によって評価が変わる、見方が変わってくる三国志の登場人物の最たる例とも言える存在ですが、同時にその生涯を見ていくことで、淀んだ陰謀の姿が見えてくる……?
劉禅の死因を考察しつつ、当時の権力闘争の一端を垣間見ることができますでしょうか?
この記事の目次
劉禅とはどんな存在?彼と周囲と皇帝即位と
劉禅、字は公嗣、幼名を阿斗と言います。彼は劉備の側室、甘夫人の子であり、劉備の死後、十七歳で太子となりました。
その後、劉備の後継者として223年に蜀(漢)の二代目皇帝として即位します。
若くして即位したためか基本的に即位後は主に諸葛亮、そして蔣エンや費イ、董允などの優秀な配下によって国を維持したこと、もっと言うと「配下が優秀だから国を維持できたんだ」という評価をされ、劉禅自身の行動としては遊興や行幸したという記録が多く残り、その度に諫言されている皇帝……といった、どうにも手放しで評価をし難い人物でもあります。
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劉禅と諸葛亮の関係、劉禅が皇帝になれたのは諸葛亮のおかげ!?
さて、劉禅と諸葛亮の関係ですが、基本的に劉禅は諸葛亮に任せておく方針であり、諸葛亮の上奏も良く取り上げます。諸葛亮からの度々の諫めもあるので完全に右に倣えではないものの、その能力を高く評価していたとも言えるでしょう。
特に二人の関係がどうであったかは「華陽国志」における、諸葛亮死後の喪に服す姿と、「諸葛亮は実は国を乗っ取る気だったんですよ!むしろ死んだことを喜ぶべきです!」と言われて怒りのままに李バクを処断するなどの一面を見ることで、少なくとも劉禅の方は諸葛亮への信頼は強かったのではないでしょうか。
その理由として、劉備の義理の息子、養子であり、そして養子でありながら劉禅から見ると義兄になる劉封の処断には諸葛亮が関わっている点も踏まえると、太子になれたことで諸葛亮に感謝していた……とも考えられないでしょうか。
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三国志演義における劉禅の数々の描写
さて、いきなりぶっこみますが、劉禅と言えば「暗愚」というのがテンプレートだった時代が長くありました。その理由として、三国志演義の存在が挙げられます。三国志演義では、ぶっちゃけますと劉禅とは暗愚そのものです。
それを補強するかのようなエピソードが魏に降伏し、蜀が滅んだ後。宴を開いて劉禅を招き、蜀の音楽を奏でさせた司馬昭が劉禅に問いかけます。
「貴方は蜀を思い出しませんか」
「ここは楽しいので、蜀を思い出すことはありません」
この返答から、「楽不思蜀」という、昔を忘れる、転じて、昔の苦労を忘れてしまうということわざが生まれました。
この返答を聞いた嘗ての蜀の将たちは唖然とするばかり、傍にいた郤正が「もし次に聞かれたら「蜀を思い出さない日はありません」と言ってください」と言いました。さて再び同じように司馬昭に問いかけられた劉禅は全く言われた通りに返したことで
「郤正殿が言ったことと全く同じですね」
「はい、その通りです」
と答えて大笑い、ここから「扶不起的阿斗」「助けようのない阿斗」というとんでもないことわざまで生まれたのでした。
これ自体は「漢晋春秋」によるエピソードですが、これをほぼそのまま三国志演義では行われた後、司馬昭が「なんて愚かな男だ、こんな男に諸葛亮が仕えていても、蜀はどうにもならなかっただろうな」と締めくくると言う話が追加され、尚のこと劉禅は「暗愚」のイメージを加速させるのでした。
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劉禅と言う、蜀を終わらせてしまった存在の影響
さて、劉禅がどこまでも暗愚に描かれる理由として、まずは蜀をその代で終わらせてしまったこと。同時に、側近に黄皓というどうしようもない悪臣を置いてしまったことで、彼に専横を許し、弟でさえ追放に処すなど、かなり擁護のできない状況を作ってしまったことが挙げられます。
劉禅の暗愚さは三国志演義でより顕著に描かれているとは申しましたが、降伏を選んだ劉禅に対し、彼の五男が徹底抗戦を主張して聞き入れられず、妻子を手にかけてから自害するという最期を迎えています。
この劉諶は三国志演義では「劉禅の子でありながら聡明な人物」として称えられていること、また正史においては賄賂で逃走とかいうどうしようもないラストの黄皓が惨殺されていることを踏まえると、当時の人々の感性として、そして三国志演義が読み物、文学としてとらえるならば、劉禅のやったことは決して許されるものではなかったのではないでしょうか。劉禅の「暗愚」の烙印の大きさを感じますね。
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「阿斗」ってどういう意味?
ここで少し、劉禅の幼名である阿斗についてお話ししましょう。この阿斗と言う名前、実はちょっと勘違いしている場面を見かけることがあります。阿が阿呆の阿と同じ文字であるためか、この名前そのものが罵倒のようなものであり、名付けた劉備は彼に生れた頃から期待してなかった……とまでいくと流石にひどいですが、これは誤りです。
阿の文字には「あかちゃん」という意味があり、幼い子への呼び方であって、これ自体は決して馬鹿にした呼び方ではありません。ただ斗という文字には北斗七星の柄杓、という意味があり、この容量が小さいことからつまらない、という意味も含まれてはいます。ですが北斗七星は天帝の乗り物と言う伝承もあり、劉禅の幼名に付いては良い意味も悪い意味も内包している、というのが妥当ではないでしょうか。
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劉禅の死因から考察する、その時代
その劉禅ですが、271年に65歳で死去。これだけを見ると死因というか、当時を考えれば病死と言うか、老衰と言うか……何事もなく、天寿を全うしたと判断できます。が、その一方で劉禅は暗殺された可能性というのも、僅かながらあるのでは?という考察もあります。
これは嘗て、費イを暗殺した魏から降伏してきた人物、郭脩が費イ伝で「度々、劉禅を暗殺しようとしていた」というとんでもない話が記録されていることによる影響でしょう。ただ、愚考させて頂くと事ここに至って、劉禅の暗殺はなかったのではないか、と思います。
実際、蜀と言うのは既に大国となっていた魏からすれば、もはやどうという国ではありません……が、面倒。放っておくのも相手するのも面倒、統一の邪魔、責めるとなるとめちゃくちゃ面倒!……となると、魏という国ではないにしろ、誰かが「じゃあトップを暗殺してしまえばいいんじゃね?」となるのは、ある意味単純を極めた英断とも言えるのではないでしょうか。個人的には魏の判断、ではなく、一個人の判断での暗殺ではないか、と思いますけどね、実際に暗殺されたの最終的になぜか費イの方ですし。
ただ、このような面倒な国の元トップが生き残っているというのは、実際には非常に難しい立場です。できればどうにかしておきたい、理由が付くのなら、反意が少しでも見えるのならば。だからこそ、司馬昭は何度も問いかけたのではないでしょうか。
「蜀を思い出さないのですか?」
と。
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現代における劉禅の再評価
こここそが、劉禅の再評価となる地点です。寧ろここで正直に「いますぐ蜀に帰りたい」などと言い出したら、劉禅はどうなるか。それを理由に、それを判断理由として処断される可能性は十分にありました。このため、「劉禅は敢えて暗愚を装い、生き延びた」という点で、劉禅は再評価をされることが増えてきたように思います。
事実、この返答は周囲からどう見えているかは置いておいて、この瞬間はベストな返答であると筆者は思います。
しかし、だからといっても黄皓を重用したというある種、最大の劉禅の欠点はまだ覆すこができる、とはいかないでしょう。そういう意味では陳寿の評「賢れた宰相に任せている間は理にそった君主となったが、宦官に惑わされて昏闇の後となった。白い糸は染められるままに何色にも変ずる」という評価が、劉禅を何よりも体現していると思います。もしかしたら司馬昭との返答から見るに、劉禅は陰謀から、逃れる術は皇帝としての生活の中で身に付けていた、身に備えていた、とも言えます。ですがその行動全てが「素晴らしい才能を秘めていた!」とはまだまだ言えないのではないでしょうか?
個人的にはここで終わらず、もっと劉禅の魏(晋)での生活が記録に残されていたら、そこから才覚を見出すことができるのでは……惜しい!そう思ってしまう人物であると思いました。陰謀渦巻く宮中で生き延びていく劉禅、どこかで見れたりしませんかね?ダメ?
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三国志ライター センのひとりごと
さて、「次はこう言ってください」と劉禅に進言した郤正。彼がどうしてどんなことを言わせようとしたのか、その理由は分かりません。
ただ彼は「劉禅が魏に降伏する際には降伏文書を書く」「劉禅が洛陽に移送されることが決まると妻子を捨てて付いていく」「劉禅を的確にサポートする!」というとにかく劉禅の補佐に一生懸命なことから「寧ろそう振舞わせて司馬昭に劉禅は無害であると主張したかったのでは」「ただ劉禅を守ろうとしたのでは」という考察があります。
郤正が何を考えていたのかは彼にしか分かりませんが、その補佐を劉禅は「郤正を評価するのが遅かった」と後悔したと言われることから、ほんの少しだけ、劉禅の何かが読み取れる気がしないでしょうか。劉禅、改めて追いかけると面白い人物ですね。どぼーん。
参考:蜀書後主伝 費禕伝 華陽国志
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