蜀と言えば、五虎大将軍が余りにも有名です。
しかし、この五虎大将軍の死後を引き継いで、蜀を防衛した
蜀の四龍将(しりゅうしょう)については、あまり認知度がないのではないでしょうか?
そこで、今回は知られざる、蜀の四龍将について紹介します。
この記事の目次
蜀の四龍将って何?初耳なんだけど
蜀の四龍将とは、王平子均(おうへい・しきん)
張翼伯恭(ちょうよく・はくきょう)、張嶷伯岐(ちょうぎ・はくき)、
廖化元倹(りょうか・げんけん)の4名です。
彼等は、劉備の入蜀後に配下に加わり、ある者は北伐を助け、
またある者は、孔明没後の蜀を防衛するなど、五虎将軍に劣らない
働きをして、蜀の命脈を繋いでいきました。
え?はい?だから、四龍将ってどこに書いてあるって?
どこにも書いていません、今、kawausoが命名したんです。
だって、五虎大将軍だって、三国志演義の作者が創作したもので、
同時代には、そんな呼び名は無かったのです。
この四名は、時々四猛将という括りで呼ばれますが、
ポスト、五虎大将軍なら、せめてライバル的な龍でいいでしょう。
蜀の四龍将を簡単に紹介
では、ポスト五虎大将軍の後継者とも言うべき、蜀の四龍将の経歴を
超簡単に紹介しましょう。
蜀の四龍将:王平子均(おうへい・しきん)
王平:元々は魏将、異民族の板盾蕃(ばんじゅんばん)の出身とも言われる。
定軍山の戦いで、魏が敗れた時に蜀に降伏する。
戦争の連続で勉学するヒマもなく、書ける漢字は10文字程度
という文盲に近い人だったが、勝負勘は抜群。
特に街亭で、張郃に敗れて壊走した馬稷に代わって踏み留まり
孔明の本体に撤退の時間を稼いだ事で大きな評価を受ける。
西暦244年、魏の曹爽(そうそう)の10万の大軍を漢中の守備兵、
3万で迎え撃ち、これを撃退するという大手柄を挙げる。
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蜀の四龍将:張翼伯恭(ちょうよく・はくきょう)
張翼:益州の出身、劉備の入蜀後に取り立てられる。
定軍山の戦いでは、趙雲に従い、大きな手柄を立てたとされる。
南夷支配に、大きな功績を上げたが、法令が厳し過ぎる事から、
南夷民族に不興を買い、交替させられて成都に帰還する。
その際に反乱を予期して後任の武将の為に、食糧と武器の備えを万全にした。
案の定、後任の馬忠の時に南蛮の反乱が起きるが、
馬忠は、張翼の備えに頼り見事に反乱を鎮圧出来た。
姜維の北伐では批判的だったが、最後まで参加した。
一方の姜維も批判的な張翼には不快感があったが、
その力は余人に変え難いので、黙って使っていたという。
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蜀の四龍将: 張嶷伯岐(ちょうぎ・はくき)
張嶷:益州出身、貧家の生まれだったが、勇気は抜きんでていた。
劉備の入蜀後、南充県を山賊が襲う事件が起きる。
南充県令は、山賊の勢いを恐れて、妻子を捨てて逃亡(劉備みたい・・)
しかし、功曹だった張嶷は逃げず、山賊の白刃をかいくぐり、
見事に、県令の妻子を救いだした(趙雲みたい・・)
これを聞いた劉備は張嶷を重く用いるようになった。
その後は、上官の馬忠と共に、西南夷討伐と北伐に活躍、
遠征でチベット系羌族の討伐に辺り手柄を立てる。
一方で、恭順した異民族へは思いやりを尽くして接したので、
彼が帰還すると聞くと、彼等は車の車輪に縋って涙を流したという。
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蜀の四龍将:廖化元倹(りょうか・げんけん)
廖化:荊州の出身、正史に名前が出てくるのは、
関羽(かんう)の主簿を勤めていた時の事で西暦218年頃の事。
後に、関羽が呉の呂蒙(りょもう)に敗れると降伏する。
しかし、蜀に戻りたい一心で、自分は死んだというデマを流し
老母を背負って、蜀へと逃亡、そのまま夷陵の戦いに参加するという
忙しい人生を送る、性格は激烈で果断だった。
姜維が北伐を再開すると北伐を支えるが、魏将・郭淮(かくわい)、
鄧艾(とうがい)を相手には大きな戦果を上げる事が出来ず、
晩年には北伐に拘る姜維に批判的だった。
彼等4人は、孔明の死後に、それぞれ、昇進して、左右車騎将軍、
鎮北大将軍に任じられたり、北伐、南征などで異民族の制圧に
大きな戦果を上げた優秀な武将ばかりです。
すでに、劉備も孔明も亡き後という事を考えても、四龍将と言うに
相応しい功績があると言えます。
悲惨!本当は七龍将になる筈だった!!残念な夷陵の敗戦
このように劉備(りゅうび)の死後、さらには孔明の死後、死に絶えた、
五虎大将軍に代わり、蜀を支え続けた、四龍将ですが、
本来なら、彼等は七龍将として、より大きく活躍した筈でした。
それを不可能にしたのは、西暦222年の劉備の大失敗、夷陵の敗戦です。
蜀軍を半壊させたこの敗戦では、馮習(ふうしゅう)張南(ちょうなん)
傅彤(ふとう)という五虎大将軍の後を受け継ぐ筈の三名の武将が戦死しました。
文官でも、白眉と言われた馬良が戦死しています。
彼が生きていれば、孔明は手足になる文官に悩む事も減ったでしょう。
特に馮習は、劉備に領軍将軍に任命された逸材でした。
三国志演義では、敗戦の責任を全て押しつけられていますが、
あの敗戦の責任の99%は劉備である事を考えれば、
貧乏くじを押しつけられた感じです。
彼等は、夷陵の敗戦で戦死したので、ほとんど功績が伝わりませんが、
生き残っていれば、後に続く四龍将の先輩として、蜀軍の戦力を
補強したであろう事は間違いありません。
3名が生きていれば、街亭の敗戦も、孔明と魏延の不協和音も無かった?
馮習、張南、傅彤が生き残っていれば、孔明は、馬稷(ばしょく)を
街亭に置く事なく、また、五虎将軍亡き後の重鎮として、魏延(ぎえん)一人に
パワーバランスが傾いて、慢心が起こり、蜀の陣営に不協和音が生じる事もなく
楊儀(ようぎ)のような、そこそこ使えても人格的にアレな人材を
側に置くというような苦労もなかったと考えられます。
それどころか、自ら北伐を指揮する必要もなく、
大局的な戦略を練る事も可能だったかも知れません。
そう考えると、夷陵における劉備の大ポカがとても惜しまれるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
こう書くと、三国志演義だけを読んでいる皆さんは、
あれ?関興(かんこう)や張苞(ちょうほう)は四龍将に加えられないのか?
と思うかも知れませんが、関興や張苞は、正史では大した活躍を
していないというのが実相です。
張苞は、張飛より先に死没し、関興は、馬良の後任として20歳で
抜擢され孔明に期待されるも、数年で病没しています。
本日も、三国志の話題をご馳走様でした。
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