魏ではなく、蜀でもない国、それが呉です。孫堅(そんけん)が基礎を造り、孫策(そんさく)、孫権(そんけん)で大きく成長した呉ですが、その独特な政治風土の為に、あろう事か田舎の三流国呼ばわりされる始末。
そこで、はじさんでは、個性的な呉のトリセツを作成しました。皆さんは、これを読んで、あらぬ誤解を解きましょう。
この記事の目次
呉の常識1 えっ?軍隊は世襲でしょう?
うっかり魏や蜀の風土になじむと、軍隊は中央が持っていて、戦争の場合だけ武将が率いるという感覚に慣れてしまいますが、それは呉では当てはまりません。呉では、大概の武将が別府司馬であり、独立軍を持って各地の県に駐屯しているからです。それは数百から数千という規模であり、支配地域により違いますが、子孫代々、その軍を引き継いでいくのが常識とされています。例えば、呉の十二神将の一人、蔣欽(しょうきん)の子の蔣壱(しょういち)は、蔣欽の死後、その軍勢を引き継いで相続し、そのまま呉に仕えています。
同じく、十二神将の周泰(しゅうたい)の子の周邵(しゅうしょう)も父親の軍勢を相続して呉将として仕えています。魏・蜀のように武将が死んだら、兵は中央に戻されるという事は呉ではあまり無い事なのです。
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呉の常識2 え?異民族討伐は普通でしょ?
魏や蜀に住んでいると、異民族というのは、山の向こうや長城の果てから時々、大挙してやってくるという印象ですが、呉では都市の周辺に異民族がいます。というより、元々異民族の住んでいた土地に、後漢の混乱などがあり、どんどん漢民族が入植してきたのが呉なので、辺りが異民族だらけなのは当たり前なのです。
住宅地に熊が出るのは、人間が山を切り開いて熊の生息地に入った為でそもそも熊のせいではない、というのと同じ理屈になると思います。
ですので、呉の武将達の伝に山越の文字が出ない事はないですし、山越討伐なくして、呉が帝国として建国する事もありませんでした。大体、呉の兵力の半分程度は、元、山越民で構成されているのを見るとその数の多さや、依存っぷりが分るというものです。
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呉の常識3 え?曹操の屯田が斬新?オラ達の村は全部屯田だべ!
曹操(そうそう)が行った、兵屯と民屯、いわゆる屯田制は半農半兵を使用して荒れ果てた華北の土地を回復させたので魏のオリジナルの政策のようですが、実は、呉において屯田は普通です。そもそも、別府司馬に任じられた呉の武将は、手持ちの兵力で、荒れ地を切り開きながら、異民族の奇襲があれば防御し、また農作業のヒマを見て、異民族を討伐して支配地を増やしていました。
つまり、呉はフロンティア軍なので、屯田が普通であり、屯田以外の方法で、領地を維持するほうが難しかったのです。曹操の屯田が斬新なら、呉の屯田だって開拓者精神に溢れた、素晴らしい政策だと評価しないといけません。
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呉の常識4 え?なんかあったら独立とか普通だけんど?
上記のような理由により、呉の豪族や名家は、私兵を持ち、荘園を持ち孫家を盟主とは仰いでいましたが、何かあれば独立し反乱を起こす可能性も秘めていました。
事実、魏の鄧艾(とうがい)も
「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、軍勢、勢力を頼れば、独立できる力がある」
と分析していますから、呉は魏の官僚政治や、蜀の孔明独裁の社会主義体制とは大きく異なり、日本の封建体制のような緩い豪族連合政権でした。
そう考えると酒乱の孫権も、時代、時代の有力武将には、
それとなく機嫌を取るような態度をしていますし、
そこにも、反乱を起こされてはまずいという情勢判断があった、、
そう言えるのかも知れません。
三国志ライターkawausoの独り言
呉は、五胡十六国時代には、建康に逃れた東晋の都が置かれますが、
三国時代からの豪族は温存されたので、晋帝の権力基盤は一貫して弱く、
そこでは、魏晋南北朝の貴族文化が政治を主導するようになります。
そう考えると、呉の時代にも、上手な統治と魏や蜀という敵があって
一枚岩になっていたとは言え、豪族の潜在的な力はかなりのモノ
であったのでしょうね。
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