呉をもっと知りたい貴方へ!これで呉の性格が分かる!呉のトリセツ紹介

2016年8月9日


 

孫堅

 

魏ではなく、蜀でもない国、それが呉です。

孫堅(そんけん)が基礎を造り、孫策(そんさく)孫権(そんけん)

大きく成長した呉ですが、その独特な政治風土の為に、

あろう事か田舎の三流国呼ばわりされる始末。

陸遜 孫権

 

そこで、はじさんでは、個性的な呉のトリセツを作成しました。

皆さんは、これを読んで、あらぬ誤解を解きましょう。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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呉の常識1 えっ?軍隊は世襲でしょう?

孫堅

 

うっかり魏や蜀の風土になじむと、軍隊は中央が持っていて、

戦争の場合だけ武将が率いるという感覚に慣れてしまいますが、

それは呉では当てはまりません。

 

呉では、大概の武将が別府司馬であり、独立軍を持って

各地の県に駐屯しているからです。

それは数百から数千という規模であり、支配地域により違いますが、

子孫代々、その軍を引き継いでいくのが常識とされています。

例えば、呉の十二神将の一人、蔣欽(しょうきん)の子の

蔣壱(しょういち)は、蔣欽の死後、その軍勢を引き継いで相続し、

そのまま呉に仕えています。

 

同じく、十二神将の周泰(しゅうたい)の子の周邵(しゅうしょう)も

父親の軍勢を相続して呉将として仕えています。

 

・蜀のように武将が死んだら、兵は中央に戻される

という事は呉ではあまり無い事なのです。

 

呉の常識2 え?異民族討伐は普通でしょ?

氐族

 

魏や蜀に住んでいると、異民族というのは、山の向こうや長城の果てから

時々、大挙してやってくるという印象ですが、呉では都市の周辺に異民族がいます。

というより、元々異民族の住んでいた土地に、後漢の混乱などがあり、

どんどん漢民族が入植してきたのが呉なので、

辺りが異民族だらけなのは当たり前なのです。

 

住宅地に熊が出るのは、人間が山を切り開いて熊の生息地に入った為で

そもそも熊のせいではない、というのと同じ理屈になると思います。

 

ですので、呉の武将達の伝に山越の文字が出ない事はないですし、

山越討伐なくして、呉が帝国として建国する事もありませんでした。

大体、呉の兵力の半分程度は、元、山越民で構成されているのを見ると

その数の多さや、依存っぷりが分るというものです。

 

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呉の常識3 え?曹操の屯田が斬新?オラ達の村は全部屯田だべ!

曹操

 

曹操(そうそう)が行った、兵屯と民屯、いわゆる屯田制は

半農半兵を使用して荒れ果てた華北の土地を回復させたので

魏のオリジナルの政策のようですが、実は、呉において屯田は普通です。

 

そもそも、別府司馬に任じられた呉の武将は、手持ちの兵力で、

荒れ地を切り開きながら、異民族の奇襲があれば防御し、また農作業の

ヒマを見て、異民族を討伐して支配地を増やしていました。

 

つまり、呉はフロンティア軍なので、屯田が普通であり、

屯田以外の方法で、領地を維持するほうが難しかったのです。

曹操の屯田が斬新なら、呉の屯田だって開拓者精神に溢れた、

素晴らしい政策だと評価しないといけません。

 

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呉の常識4 え?なんかあったら独立とか普通だけんど?

太史慈

 

上記のような理由により、呉の豪族や名家は、私兵を持ち、

荘園を持ち孫家を盟主とは仰いでいましたが、

何かあれば独立し反乱を起こす可能性も秘めていました。

 

事実、魏の鄧艾(とうがい)

 

「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、

軍勢、勢力を頼れば、独立できる力がある」

 

と分析していますから、呉は魏の官僚政治や、

蜀の孔明独裁の社会主義体制とは大きく異なり、

日本の封建体制のような緩い豪族連合政権でした。

 

孫権

 

そう考えると酒乱の孫権も、時代、時代の有力武将には、

それとなく機嫌を取るような態度をしていますし、

そこにも、反乱を起こされてはまずいという情勢判断があった、、

そう言えるのかも知れません。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

呉は、五胡十六国時代には、建康に逃れた東晋の都が置かれますが、

三国時代からの豪族は温存されたので、晋帝の権力基盤は一貫して弱く、

そこでは、魏晋南北朝の貴族文化が政治を主導するようになります。

 

そう考えると、呉の時代にも、上手な統治と魏や蜀という敵があって

一枚岩になっていたとは言え、豪族の潜在的な力はかなりのモノ

であったのでしょうね。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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