皆さんは、孫堅(そんけん)の死後に、その後を継いだ武将をご存じでしょうか?
もしかして、小覇王、孫策(そんさく)だなんて思っていませんか・・
だとしたら、答えはブーー!実は、孫堅の死後、その軍勢を継いだ男は、
孫策ではなく、孫賁(そんほん)なのです。
今回のはじさんは、知られざる呉の二代目、孫賁を紹介します。
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この記事の目次
小覇王孫策とは従兄弟にあたる孫賁
孫賁伯陽(そんほん・はくよう)は、父を孫羌(そんきょう)と言いました。
この孫羌は、孫堅の兄だったので、つまり孫策と孫賁は従兄弟になります。
しかし、孫賁の両親は早くに死去し、彼は幼い弟の孫輔(そんほ)を養育しながら、
県の督郵(とくゆう)を勤めましたが、非常に弟に愛情深く接し評判が高い人でした。
叔父の孫堅が挙兵すると、役人を辞めて参加する
叔父の孫堅が長沙で挙兵すると、孫賁は役人をやめて従いました。
孫堅と同じく、袁術(えんじゅつ)の支配下で働きますが、袁術が
劉表(りゅうひょう)とこじれた結果、孫堅は江夏の黄祖(こうそ)を攻め、
伏兵に引っ掛って戦死します。
その時、孫賁は、孫堅が率いていた余衆を統率して
孫堅の棺を曳いて故郷まで戻ります。
ここで注目すべきは、孫堅の手勢は、孫賁が引き継いでいる事です。
おそらく、孫堅の息子である孫策は、孫賁より年少であったし、
孫堅について戦をしていた孫賁の方が人望を集めていたのでしょう。
つまり、袁術から孫堅の軍勢を継いだ二代目は孫策ではなく、
この孫賁だったという事です。
瀕死の袁術を救い、一目置かれる存在に・・
その後、袁術は、193年正月、曹操(そうそう)&劉表&袁紹(えんしょう)勢力を
袁術&公孫瓚(こうそんさん)&陶謙(とうけん)の連合軍で撃破しようとして
匡亭(きょてい)の戦いを起しますが、曹操に大敗、おまけに南陽への帰還も、
劉表に阻止されて命からがらで九江郡の寿春(じゅしゅん)に逃げ延びます。
しかし、袁術が世話してやった大守の陳瑀(ちんう)は、袁紹の勢力へ
日和見をして袁術を城にいれようとはしませんでした。
怒った袁術は、孫賁を呼び寄せて兵力を集めて、
陳瑀を撃破して、寿春を分捕る事に成功しました。
この戦いにおける孫賁の功積は大きいものであり、
袁術にとっては、命の恩人に近い部分があります。
後には、孫策を褒め称える袁術ですが、この頃は孫賁に、
揚州攻略を任せて宿敵である劉繇(りゅうよう)に当たらせています。
この時点での孫家の頭領は、孫賁であった可能性が高いでしょう。
劉繇に何度も勝負を挑むが勝てず、孫策が頭角を表す
その後、孫賁は、袁紹が九江大守とした陰陵(いんりょう)の周昂(しゅうこう)を
袁術の命令で撃破、袁術は上表して孫賁を領豫州刺史(りょう・よしゅうしし)とします。
次に孫賁は、丹陽都尉(たんよう・とい)に転じて、行征虜(ぎょう・せいりょ)将軍に
なり、南鉞の異民族を討伐、しかし、その途中で揚州(ようしゅう)刺史の
劉繇に追撃されて破れ、歴陽(れきよう)まで後退します。
やられっぱなしはプライドが許さない袁術は、孫賁と呉景(ごけい)に
劉繇配下の樊能(はんのう)と張英(ちょうえい)らを撃たせますが、
両者は、手ごわく抜けませんでした。
ここで頭角を表したのが孫策で、長江を渡り、孫賁、呉景と連合し
ようやく、樊能と張英を討ち、劉繇も豫章(よしょう)に逃げ去りました。
この一戦で、孫策は孫賁を凌駕し、勢力の逆転が起こります。
袁術の元を離れ、孫策につく孫賁と呉景
宿敵の劉繇を撃破した袁術は、大喜びで孫賁を征虜将軍として
寿春に駐屯させ、呉景は広陵(こうりょう)太守、孫堅の再従兄弟の
孫香(そんか)を汝南大守にしました。
そして、西暦197年の正月に袁術は自ら皇帝に即位します。
普通は、誰かが推戴するもんですが、まあ、自分で自分を
リクルートしたようなもんですね。
江表伝によると、孫策は皇帝を詐称した袁術と距離を置き、
一族である、孫賁、呉景、孫香に手紙を出しました。
「私は江東を制覇したが、まだ、君達の気持が分らない
私に就くのか?それとも袁術に就くのか?」
それを見た呉景は、広陵太守の地位を棄てて、孫策の元に走り、
孫賁は悩んだ挙句に、妻子を棄てて、やはり孫策に帰属します。
ここで、孫賁は、それまでの孫家の代表から、従兄弟の孫策の同盟者、
或いは、配下という地位に落ち着いたと言えるでしょう。
孫策に背き、袁術サイドに残った孫香
江表伝では、孫香は、汝南大守で、江南から遠く離れていて
孫策の呼びかけに応えられなかったとしていますが、
そうじゃなく、ただ皇帝袁術の下につく方に将来性を感じ、
割がいいと孫香は思ったのだと思います。
同じ孫家でも一枚岩とは限らない、乱世ですからそれが自然です。
孫香は征南将軍になり、寿春で戦死しました。
孫権の政権下でも地位を保ち、死去
孫策程ではないにせよ、孫賁は呉の為に懸命に働きます。
孫策が呉、会稽の二郡を平定した後、西暦199年には孫策と共同して
廬江太守劉勲(りゅうくん)と江夏太守黄祖(こうそ)を征伐しました。
凱旋の途中、宿敵の劉繇の病死を聞いた孫賁は、軍を返す途中で
豫章(よしょう)を平定、豫章太守を領し後に都亭侯に封じられます。
西暦208年、使者、劉隠(りゅういん)が詔(みことのり)を奉じて
孫賁は征虜将軍になります。
孫策の死後も地位を保ち、重鎮であり続けた孫賁は、
翌年209年に死去しました。
三国志ライターkawausoの独り言
孫堅と孫策の間を繋ぐ男、孫賁は、孫策が眩しくスポットライトを
あてられる一方で地味な扱いでしたが、一時期は孫家を代表し、
袁術の信任もあつい武将でした。
己の力量を見る目と時勢も読めた為に、袁術を見限り、
孫策を頼り、自分は配下となる事で呉に無用な内紛を招かないなど
呉の発展に尽力した、なかなかの名将であったと言えるでしょう。
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—