三国志演義にて、呂布(りょふ)には八健将という八人の将がいました。
八健将は序列が決められており、その構成員は上から張遼(ちょうりょう)、
臧覇(ぞうは)、郝萌(かくぼう)、曹性(そうせい)、成廉(せいれん)、
魏続(ぎぞく)、宋憲(そうけん)、侯成(こうせい)となります。
この八健将という呼称は三国志演義のみであって史実にはありませんでした。
しかし、実際にはこの八健将という呼称の由来となった将がいます。
それが成廉(せいれん)という将です。
今回は八健将の序列五位、八健将のはじまりとなった将、
成廉(せいれん)について、正史と演義、両方から紹介します。
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正史:成廉の生きた時代
成廉(せいれん)は、史実では永く呂布(りょふ)に仕えていました。
呂布(りょふ)は、仕えていた董卓(とうたく)を裏切った話は有名ですが、
董卓(とうたく)の配下だった李傕(りかく)と郭汜(かくし)に敗れ、長安を追われます。
その後、呂布(りょふ)は袁紹(えんしょう)の元に落ち延びました。
この時、呂布(りょふ)の元には成廉(せいれん)と魏越(ぎえつ)がいました。
彼らは、呂布(りょふ)の側近の様なポジションでした。
正史:黒山賊との戦い
当時、袁紹(えんしょう)は黒山賊の張燕(ちょうえん)と戦っていました。
そこで、厄介な黒山賊を呂布(りょふ)に討たせようとしました。
張燕(ちょうえん)は1万の精鋭と数千もの騎馬を率いていました。
対する呂布(りょふ)は赤兎馬に跨り、成廉(せいれん)と魏越(ぎえつ)を率いる数十騎程度でした。
しかし、呂布(りょふ)軍は一日に三、四度にも及び張燕(ちょうえん)陣営に突撃し、
張燕(ちょうえん)軍の兵を次々討ち取ったため、数十日後に遂に黒山賊は壊滅しました。
この戦いから、史実として
「呂布に赤兎あり、常に付従う親衛の成廉(せいれん)と魏越(ぎえつ)あり」と記録されています。
正史:成廉の最後と彼への評価
その後、呂布(りょふ)は戦乱の中、曹操(そうそう)と下邳城で最後の戦いをします。
この戦いで、呂布(りょふ)軍は敗北し、成廉(せいれん)も捕縛されました。
これ以降、史書にいは成廉(せいれん)に関する記述はないことから、
この時、成廉(せいれん)は呂布(りょふ)とともに曹操(そうそう)に打ち首にされたのでしょう。
魏書呂布伝・武帝紀では、成廉(せいれん)についての記述があり、
「驍将、成廉は生け捕りになった」とあります。驍将〔ギョウショウ〕というのは、
「強く勇ましい大将」という意の呼称であり、
ここからも成廉(せいれん)の並々ならぬ実力がうかがえます。
後漢書呂布伝では成廉(せいれん)は魏越(ぎえつ)とともに、
「健将」との表現をされており、八健将の元になったのではないかと考えられます。
演義での活躍
三国志演義では、成廉(せいれん)は他の八健将とともに「濮陽の戦い」で初登場します。
この戦いは呂布(りょふ)軍と曹操(そうそう)軍の戦いでした。
成廉(せいれん)はこの戦いで他の将とともに戦いますが、
度々曹操(そうそう)の配下の悪来典韋(あくらい てんい)に
追い回されるというやられ役のような役割です。
史実とは逆に勇猛な活躍はありませんでした。
この時の戦いは、イナゴの大量発生により、田畑が荒らされ食糧難となり、停戦となりました。
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ピンチに陥る呂布
その後、時を経て曹操(そうそう)軍と呂布(りょふ)軍の戦いが再び始まります。
しかし、この時呂布(りょふ)軍は濮陽の豪族である田氏(でんし)から裏切られ、
城から追い出されてしまいました。
敗走した呂布(りょふ)軍を曹操(そうそう)軍が執拗に追いかけます。
陳宮(ちんきゅう)は曹操(そうそう)が策を弄することを危惧して
呂布(りょふ)に諫言しましたが、聞き入れられませんでした。
まさかの成廉の最後!
呂布(りょふ)は追撃してくる曹操(そうそう)軍を迎えうつことにしました。
呂布(りょふ)は、曹操(そうそう)の陣屋への周辺の地形から森に伏兵がいると踏んで用心していました。
しかし、実際には枯れた川の土手に兵が伏せられており、
不意に現われた伏兵に対処できず敗走しました。
その最中、曹操(そうそう)軍の楽進(がくしん)の放った矢により、
成廉(せいれん)が命を落とします。
さらに、軍勢の三分の二を失ってしまいました。
なんと、演義では下邳城の最終決戦前に成廉(せいれん)は脱落してしまっています。
三国志ライターFMの独り言
成廉(せいれん)と魏越(ぎえつ)はおそらく八健将の元になった武将なのでしょう。
なぜか魏越(ぎえつ)は八健将には加えられていませんが、
正史での彼ら、呂布(りょふ)の"健将”が三国志演義での八健将の元になった可能性は高いです。
とはいえ、なぜか成廉(せいれん)は最終決戦まで生き残れなかったような役回りになってしまいました。
なぜこんなことを羅貫中(らかんちゅう)がしたのかは、分かりません。
しかし、恐らく裏切り者で知られ、そして三国志演義の主役、
劉備(りゅうび)を陥れた呂布(りょふ)を慕い、
最後までつき従う様なそんな人物は、物語上描きたくなかったのかもしれません。
参考文献
魏書呂布伝
後漢書呂布伝
武帝紀
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