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陸遜の生い立ちはどんな感じ?知られざる陸遜の前半生に迫る

2018年4月20日


 

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陸遜

 

 

石亭や夷陵の戦いなどで活躍し、孫呉の名将として知られる陸遜(りくそん)。しかし陸遜は最初から孫家に仕えていたわけではなく、孫家に恨みすら抱いていたこともあります。では孫家に恨みを抱いていた陸遜がどうして孫家に仕えたのか。今回は陸遜の生い立ちについてご紹介したいと思います。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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陸家の本家で育つ陸遜

陸遜

 

陸家は江東の名族として知られていました。陸家に生まれた陸遜は、名族だったことからエリート教育を施され、すくすくと育っていきます。そんな陸遜に大事件がおきます。それは陸家の当主・陸康(りくこう)が孫家の当主・孫策(そんさく)によって滅ぼされてしまったことです。陸遜は当時陸康の元にいなかったため助かりますが、陸家は当主を失った事でボロボロになってしまいます。

 

 

孫家に恨みを持つも・・・・

陸遜

 

陸家は当主・陸康が亡くなってしまいボロボロになってしまいます。また陸康の息子はまだ幼くて家を取りまとめる能力がありませんでした。そのため陸遜が陸家を取りまとめることになります。こうして陸家の当主代理となった陸遜は陸家を取りまとめていくことになりますが、孫家の勢力が江東一帯で拡大。

 

陸遜は陸家をボロボロにした孫家に恨みを持っていましたが、このまま孫家と敵対していれば、陸家が立ち直る前に孫家に吸収されるか、滅ぼされる可能性がありました。そのため陸遜は名士を積極的に登用している孫権(そんけん)の元に出仕することに決めます。

 

孫策と陸遜

 

しかし陸遜は孫権に仕えるための条件として孫家と婚姻関係を結ぶ事を提案。孫権は陸遜の条件を飲んで孫策の妹を陸遜に嫁がせます。こうして陸遜は孫家に対する恨みを捨てて、陸家を守るために孫権に仕えます

 

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異民族討伐戦などでコツコツと武勲を上げて出世していく

陸遜

 

陸遜は孫権に仕える事になりますが、最初から武官として仕えたわけではなく文官の仕事からスタートすることに。陸遜はしっかりと事務作業や飢餓に飢える農民達の統治などを行って成果を出します。陸遜はこうして少しずつ孫家で実績を積んでいき、江東に割拠する異民族討伐戦でも成果を着実に出していくのでした。こうして陸遜は孫家で一歩一歩少しづつ出世していくのでした。

 

 

陸遜が世に出るきっかけを作ったのはいったい誰!?

呂蒙

 

陸遜は孫家で少しつづ実績を積んでいき、成長していきますが、陸遜が三国時代に知れ渡ることになったきっかけを作ったのはいったい誰なのでしょうか。陸遜が世に出ることになったきっかけを作ったのは呂蒙(りょもう)でした。なぜ呂蒙が陸遜を世に出すことになった人物なのか。それは蜀の名将・関羽(かんう)と関係があります。

 

 

呂蒙がいたせいで関羽は油断できなかったが・・・・

関羽と陸遜

 

呂蒙は建業に帰って病を癒すことに専念します。孫呉との国境を守っていた関羽は呂蒙が帰った事で大喜び。どうして関羽は呂蒙が居なくなって大喜びしたのでしょう。

 

曹仁

 

それは関羽が魏の樊城を守っている曹仁(そうじん)との戦っていた事が理由です。関羽は曹仁が守る樊城を中々攻略することができませんでした。その理由は兵力不足です。関羽は孫呉との国境に大軍を置いていたので、樊城攻略軍に増援を送ることができない状況でした。関羽は呂蒙が建業へ帰還した事で国境の守備兵を大幅に減らして、樊城攻略軍の増援部隊として派遣することに。

 

しかし関羽が孫呉との国境を守る守備兵を減らしたのは、呂蒙が帰っただけが理由ではありませんでした。もう一つ大きな理由があるのです。

 

関羽

 

 

孫呉の国境守備司令官が陸遜だったから

関羽と陸遜

 

関羽は新たに着任してきた国境守備司令官を知りませんでした。新しい司令官は陸遜でした。陸遜はまだ孫呉の内部でも有能な人材だったことが知られず、国外ではほとんど無名に近い武将でした。

 

陸遜は呂蒙と会見し「勝利を重ねている関羽が油断している今、荊州へ攻撃を仕掛けて奪うべきです。」と呂蒙へ進言。呂蒙は陸遜のアドバイスを聞いて孫権へ「私の後任には陸遜がいいでしょう。理由は陸遜の才能と度胸が司令官にふさわしいからです。」と陸遜を推挙。

 

策略が得意な呂蒙

 

孫権は呂蒙の推挙を信じて陸遜を蜀との守備司令官として派遣するのでした。陸遜は着任するとすぐに関羽へ「関羽殿。私は新米で右も左もわかりません。しかし関羽殿が居るから私は安心してこの地を治める事ができます。今後は関羽殿に色々と教えてもらいたいと思います。」と関羽にへりくだった手紙を送ります。

 

関羽は陸遜のへりくだった手紙と、彼があまり名声のない人物だった事も国境の守備軍を大幅に減らした原因の一つです。こうして陸遜は国境の守備兵が居なくなった蜀へ攻め込んで、蜀が保有していた荊州を奪うことに成功。そして陸遜は関羽を生け捕りにして討ち取ると瞬く間に陸遜の名声が世に知れ渡ることになり、孫呉の名将として成長を遂げていくことになるのです。

 

呂蒙

 

 

三国志ライター黒田レンの独り言

黒田レン

 

今回はあまり知られていない陸遜の生い立ちをご紹介しました。陸遜の陸家は呉の四姓と言われる江東を代表する名士でした。

 

しかし呉の四姓には陸家の他に張氏・朱氏・顧氏の三姓があります。ここでは呉の四姓の代表格をご紹介しましょう。

 

朱桓(しゅかん)朱拠(しゅきょ)は陸家と同じ呉の四姓の朱氏出身の名士です。代表格として知られます。また孫呉の丞相として活躍した顧雍(こよう)は顧氏出身の名士です。そして張氏には孫権のアドバイザー張昭(ちょうしょう)ではなく張温(ちょうおん)が入ります。このような名士達に支えられていた孫家でした。

 

【参考】ちくま学芸文庫 正史三国志呉書など

 

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