一般に三国志ファンの中で、夏侯(かこう)と言えば、
それは夏侯惇(かこうとん)の事です。
そして、チョウリョウと言えば、黄巾賊の人公将軍ではなく、
魏の将軍である張遼(ちょうりょう)を意味します。
さて、同じ夏候を名乗るのに、どうして夏侯淵(かこうえん)は
地味なんでしょうか、その原因をはじさんは探ります。。
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この記事の目次
見かけの鈍重な容姿に似合わない、神速の将軍
夏候淵は三国志演義では弓の名人、武芸の達人、そして、
あの夏候惇の兄弟という3点で囲われます。
強いて、付け加えるなら定軍山で黄忠(こうちゅう)に討たれる位でしょう。
バカとまではいかないけど、脳筋武将というのが夏候淵のイメージです。
しかし、実際の夏候淵は、3日で五百里、6日で千里という神速の
行軍を得意とする将軍であり、兵糧を管轄する兵站の名手でもあります。
五百里は250キロ、千里は500キロにもなります。
では、何故、夏候淵は、こんなに地味なのでしょう。
派手な戦いでの記述が薄い夏候淵
官渡の戦いの時の夏候淵は、督軍校尉(とくぐんこうい)を代行していたと言います。
督軍校尉とは何かというと兵を鼓舞して戦わせる役割です。
官渡決戦では、袁紹に対して曹操が劣勢で兵糧も乏しく士気も低いので
兵は逃げよう、逃げようとして必死でした。
夏候淵は、これに睨みを利かせ逃げるものは容赦なく斬り捨てて
秩序を維持していたのでしょう。
しかし、同じ頃、楽進(がくしん)や于禁(うきん)といった将軍達は
前線で戦い派手な活躍をしていました。
その同じ時、じっと自軍の秩序維持をしていた夏候淵、、
そりゃあ、逃げる兵士を「バスっ!」では絵にならないですね。
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地味だけど強敵の昌豨(しょうき)を破る!
昌豨とは、元々は呂布(りょふ)の同盟者であった泰山の独立勢力でした。
西暦198年に呂布が滅びると昌豨も一度は降伏しますが、
曹操が袁紹と戦い始めると、劉備に呼応して、今度は東海で独立します。
これを曹操は、張遼、夏候淵を派遣して攻撃しますが、昌豨は
手強く、これを落す事が出来ませんでいた。
それでも張遼が元呂布の配下である事をツテに昌豨を説得して
これを降伏させます。
ところが、曹操が冀州を平定した206年にまた背きます。
曹操は、今度は于禁と臧覇(ぞうは)を送りこみますが苦戦、
さらに夏候淵を送り込むと、夏候淵は昌豨の陣地を10個落し
昌豨は恐れて再び降伏しました。
今度は流石に許されず昌豨は于禁に斬られますが、
これは夏候淵の活躍あっての勝利でしょう。
ただ、この話は三国志演義にはありません、、
なので、夏候淵の活躍は無かった事にされています。
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韓遂と馬超を最終的に撃ち破ったのも夏候淵
次の夏候淵の見せ場は、馬超(ばちょう)との戦いです。
西暦211年、夏候淵は蜂起した馬超と韓遂(かんすい)の連合軍を
配下の朱霊(しゅれい)を指揮して破ります。
その後も、夏候淵は長安に陣を置いて張郃(ちょうこう)、
徐晃(じょこう)と共に、羌(きょう)族の諸部族を討伐して、
馬超が再起できないようにするなどの後始末を行います。
西暦212年、敗れた馬超が再起して、冀城を落して本拠地にすると、
氐(てい)族がこれに呼応して反乱を起し、夏候淵は分が悪いとみて
一度長安に帰還しました。
しかし、西暦214年、趙衢(ちょうく)と尹奉(いんほう)が
馬超、討伐に動いて姜叙(きょうじょ)と通じて馬超が姜叙を
討伐に向かった隙に冀城で反乱を起し、馬超の一族を殺して城を奪還します。
馬超は、一度逃げますが、漢中の張魯(ちょうろ)を頼って兵を借り、
戻ってきて、祁山で姜叙を包囲しました。
姜叙は堪らず、夏候淵に援軍を要請しますが、
諸将が「曹操の判断を待ってから」と援軍を渋っていると
夏候淵は、「魏公の命令を待つ間に祁山は馬超の手に落ちる」として
独断で兵を出して馬超を攻撃し、驚いた馬超は劉備の下に落ちていきます。
さらに夏候淵は、戦上手で知られる韓遂も巧妙な作戦で追いつめて、
この勢力を壊滅に追い込んでいます。
このように夏候淵は、曹操の大ピンチだった馬超・韓遂の反乱の
後始末を完璧にやり遂げます。
夏候淵は、こうして涼州を平定して、仮節を与えられます。
仮節とは、曹操の命令に拘束されず自由に軍を動かす権利です。
馬超や、韓遂との戦いでの夏候淵の働きを見た曹操は、
彼に行動の自由を与えようと思ったのでしょう。
曹操は以後、羌族と交渉する時には夏候淵の名前を脅しに使い、
交渉を有利に進めたと言います。
ですが、異民族討伐の専門家は少しもメジャーになれないという
三国志の法則に従い、こんなに曹操の天下に尽力したのに、
夏候淵の手柄は無視されています。
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漢中攻防戦で次第に劉備に押され定軍山で戦死
このように長安、そして張魯の降伏後は漢中を守る事になった
夏候淵は、益州を抑えた劉備と対決します。
当初は、徐晃(じょこう)や張郃を使い、一進、一退だった戦線も、
次第に劉備に追い詰められるようになり、
最期は定軍山の本陣まで迫られ不用意に逆茂木を直しに
自分で出た所を黄忠(こうちゅう)に討たれて戦死します。
三国志演義では、この部分だけをクローズアップするので、
夏候淵は、脳筋バカで魏がデカくなったから大軍を指揮するように
なった短気な直情型将軍で括られる事が多くなりました。
しかし、実際には、馬超や韓遂が異民族の羌や氐族を煽動して
起した厄介な反乱の芽を一つ一つ潰していった沈着で冷静な部分が多い
将軍なのです。
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