三国志演義では、諸葛亮亡きあとその後継者として最後まで強国・魏と戦い、降伏後には蜀再興を図るも失敗、非業の死を遂げた忠義の将として描かれている姜維。
しかし、そんな姜維に対する歴史家の評価は良いものばかりではなく、数で比較すると辛口で批判的な見解の方が多いほどです。
正史注釈者・裴松之による姜維評
はじ三内でヘビロテ登場する三国志正史に、著者・陳寿が採用しなかった史料から詳しい注釈を加えたことで有名な裴松之は、東晋末から宋初期に活躍した歴史家・政治家です。根っからの蜀漢びいきで、姜維や諸葛亮に対し好意的な評価をするのが特徴。
後述する孫盛がこき下ろした対魏軍との最終決戦・剣閣の戦いで、蜀を守り切れなかった姜維の行動についても、次のように反論しています。
「姜維という優れた武将が剣閣という要害に詰めていたから、稀代の名将・鍾会率いる魏軍にして蜀の中枢に行けず、一時撤退も考えたのだ。しかし別働隊を率いた鄧艾が、もう一方の要・綿竹関を陥落させ、その知らせを聞いた劉禅が降伏してしまった…。この段階の戦力差で双方の要所を守り抜くのは難しく、(孫盛が)姜維が綿竹や劉禅守護に向かわなかった事を批判するのはおかしい。」
つまり、姜維がどうこう言うより当時の蜀は既に風前の灯火、しかも仮に姜維がもし剣閣を捨てて綿竹関に向かえば、鍾会と鄧艾の両軍に挟み撃ちにされ、壊滅の憂き目に遭うのは火を見るより明らか。
君主・劉禅の奮起を信じ、鍾会を退けたのち成都救援に向かうしかなかった、というのが裴松之による姜維擁護論の趣旨です。
魏志春秋著者・孫盛による姜維評
一方、魏志春秋の著者にして、かの文豪夏目漱石のペンネームの由来となった言い間違い、「流れに枕し石に漱ぐ」で有名な孫楚を祖父にもつ孫盛。
裴松之曰く、「異同を捜し求めて漏洩なし」と称賛される彼ですが、こと剣閣の戦いにおける姜維評については、著作の中で以下のように、裴松之と真反対の辛辣な意見を述べています。
「鄧艾の別動隊は少数にすぎず、剣閣に籠る姜維が駆け付ければ、劉禅が降伏を決める諸葛噡の死を防ぐことができたはずだ。それどころか剣閣に籠りっきりで劉禅守護にすら向かわない始末‥、蜀漢が滅亡するのも当たり前、姜維は愚かで無能な将であるとしか言えない。」
加えて、滅亡後に姜維が企てた蜀再興計画についても、「敵将・鍾会から厚情を受けたことをいいことに、彼を反乱へとたきつけた挙句、最終的には裏切り道理に外れた成功を得ようと望んだなんて‥、なんて馬鹿で愚かな奴。」
と、徹底的に姜維を批判する姿勢を貫いています。
【北伐の真実に迫る】
劉禅のお目付け役・郤正による姜維評
長い間劉禅のそばに秘書令として侍りながら、営利に淡白で文章の美を追求する、つつましい性格が幸いし蜀漢末期に専横を極めていた黄皓ともめることなく、魏への降伏文書を書いた郤正。
蜀滅亡後は妻子を捨て洛陽に送られた劉禅に付き従い、魏において先帝が落ち度なく、平穏に生活ができるよう正しく導いた劉禅の教育係です。
前述した2名と異なり、姜維と同時代に生きた政治家兼学者である彼は、「姜維殿は重責を負い群臣の上に立つ身分ながら、粗末な家に住み余分な財産や、妾を囲う不潔さ音楽を奏でさせる楽しみも持たず、あてがわれた衣服や車馬を使うなど、贅沢もせず倹約もせず中庸を守っていた。
姜維殿のように学問を楽しんで倦まず、清潔で質素・自己を律する者は時代の模範とすべきだ。」と、姜維についてその人格をべた褒めしています。
これに対して前述した孫盛は、「姜維は忠孝義節を備えておらず、智勇もたいしたモンじゃないって、魏から逃げて蜀に頃期り込んだ挙句、ムリな戦を繰り返してを滅ぼした張本人を、『時代の模範』とすべきなんて…、郤正マジ受ける馬鹿じゃないの?」と猛反論、一方姜維擁護派の裴松之は、「郤正は姜維の美点を挙げただけで、全てを模範としろなんて一言も言ってない。
人格的に評価しているのであって、そもそも上官が勝手に疑心暗鬼になって姜維を締め出し、追い詰められて蜀に降ったんだから緊急避難、姜維を責めるのはお門違いだって!」と孫盛の姜維評に反論を述べています。
もっとも中立?正史著者・陳寿による姜維評
同じ時代に蜀で活躍し、おそらく直接あるいは間接的に姜維と接したであろう郤正の姜維評へ、そりゃ違ういやいやそっちこそと、姜維の死後生まれた裴松之&孫盛による論争は置いといて、ここで満を持して正史の代表編さん者・陳寿がどう姜維を評価しているのか見てみましょう。
実のところ、陳寿は肯定派でも否定派でもなく客観的かつ事実に基づき、「姜維はほぼ文武両道と言える才能を兼ね備えてはいた。しかし、長年にわたって国力にそぐわないムリな北伐を繰り返した結果、蜀の衰亡を早めてしまった。」という、三国志を知る者なら「そうだ」と納得しやすい公平な評価をしています。
陳寿はもともと蜀漢に仕えていた人物であるため、言葉使いにしろ描き方にしろ、劉備を始めとする蜀陣営びいきである傾向にあります。
にもかかわらず、才は認めつつも「滅亡の原因を作った元凶」と評価しているのには、相次ぐ北伐によって国を疲弊させた姜維を、仇なす者する「仇国論」を著した、譙周へ師事していたことが、おおいに影響していると考えています。
三国志ライター酒仙タヌキの独り言
演義は正直言って姜維を持ち上げすぎですが、ライバル・鄧艾に大敗を喫するまでは、局地的に魏を破っています。
また、剣閣が要害とはいえ少ない兵力で鐘会を撤退寸前まで追い詰めたことから、陳寿が評価する通り、かなり軍略や統率力に優れていたのは確かでしょう。
ただ姜維は、政治と戦争を完全に切り離していた生粋の武闘派、弱体化していく蜀の国力を顧みたり、ましてや魏や呉と折衝外交する芸当なんてできない、「戦闘マシーン」に過ぎなかったのではないかと筆者は考えています。
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