袁譚は後漢(25年~220年)末期の群雄である袁紹の長男です。母は劉氏であり、異腹弟に袁煕・同母弟に袁尚がいます。袁譚は袁紹の死後、弟の袁尚と後継者争いを起こしました。曹操と袁尚が争っている間に、漁夫の利を狙おうと画策しますが、それを曹操に読まれて討たれます。実は袁譚はある人物の養子に行っていました。そこには、とある秘密が隠されていました。 今回は正史『三国志』をもとに袁譚の秘密について解説します。
「袁紹 長男」
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袁譚は養子に行っていた?
袁譚は若い時に袁紹の命令で、伯父の袁基の養子になっていました。袁基は朝廷で重職を担っている人物です。しかし初平元年(190年)に袁紹が曹操と一緒に董卓討伐軍を結成すると、董卓は袁基を処刑しました。
この時、洛陽にいた袁家は壊滅。ただし、袁譚が逃げ出したという記録は史料にありません。このことから、おそらく袁譚は袁基の死後に養子になったと思われます。死後養子というのは変だと感じるかもしれませんが、これは中国ではよくある話でした。昔の中国では夫妻が男子をもうけないで両名とも死亡して家が断絶状態となった場合は、祭祀を復活させるために死後養子をとることが許されていました。
上記のことを「継絶」または「命継」と言います。「継絶」は字面の通り絶えた血統を継ぐ、「命継」は継ぐことを命じるという意味です。袁譚は袁紹の命令で袁基の家を継いでいるので命継に該当します。袁譚が死後養子になった正確な時期は史料に何も記されていません。だが養子になるとすぐに青州に行き、公孫瓚に勝利して青州刺史に任命されています。
袁紹と公孫瓚が青州方面で戦ったのは初平2年(191年)です。おそらく袁譚の死後養子の話は初平元年(190年)から同2年(191年)の間でしょう。
なぜ袁譚を死後養子にした?
ここでの謎は、どうして袁譚を死後養子にしたのでしょうか?その謎は袁基という人物にあります。袁基は袁術の実の兄です。袁基存命中は彼が袁家の当主でした。ところが、袁基が死んだことにより実弟の袁術が新たなる当主になります。
すでに何度も記事にしたことはありましたが、この当時は袁紹と袁術が天下を争っていた時代でした。各地の群雄も袁紹系(曹操・劉表・韓馥など)と袁術系(公孫瓚・孫堅・陶謙・劉備など)に別れて行動していたのです。
しかし、袁術は袁家の正統性では袁紹より一歩リードしています。袁紹は袁家を継ぐはずだった袁成の子として誕生しますが、袁成が早死にしたことから後継者候補から脱落したのです。袁紹はなんとしても袁家の正当性を自分に取り戻さねばいけません。ただし、武力で無理やり奪い取ったら周囲から白い目で見られるはずです。
そんな時に袁家を継いでいた袁基が董卓に殺されました。これはチャンスと思った袁紹は自分の子である袁譚に全てを託すことに決めます。
袁譚が袁基の家を継ぐことにより、袁家の正統な後継者は袁紹の家系ということを作ることにしたのです。もちろんこれは袁譚も承諾済みだったはず。なんといっても、傍系から直系になるなんて夢のようですからね・・・・・・袁譚が袁紹が死ぬまで文句も言わずに従っていたのは、これが理由と考えられます。
三国志ライター 晃の独り言
袁紹には、たった1つの誤算がありました。信頼していた部下に裏切られたことです。『後漢書』によると袁紹は遺言を残していたようですが、それを審配と逢紀が偽造したことでした。
遺言に何が記されていたのか今日では確かめる術はありません。審配と逢紀は袁紹の三男である袁尚を後継者に推したことから、もしかしたら袁譚を後継者にするように記されていたのでしょう。袁譚が袁尚と後継者争いをせずに、そのまま袁家を継いでいたら歴史はどんな風に変わっていたでしょうか?
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