日本では江戸時代から親しまれている「三国志」。今も多くの人に愛されている物語ですが、私たちがよく知っている三国志は『三国志演義』という小説をベースにしたものです。
そのため、清の時代の歴史家は三国志演義を「七分の史実に、三分の虚構」と評価しています。だからこそ、面白い三国志とも言えるのですが、ではどのような部分が創作された虚構なのかを紹介していきたいと思います。
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劉備と曹操のキャラクター性
三国志演義には数多くの登場人物がいますが、その中でも劉備やその義兄弟、関羽と張飛はストーリーの軸として描かれています。
また、彼らの前に立ちはだかる強大な敵が曹操となります。仁義に篤く道徳的な劉備と、野心的で冷酷な手段もいとわない曹操。全体的にはこの明確な構図を中心に、物語は進んでいきます。
しかし、劉備と曹操の個性は、正史にはない三国志演義ならではのもの。正史の劉備はこんな感じです。
若いころは地元でごろつきを集め、豪商や従兄からお金を出してもらいながら、村を実質取り仕切って好きに暮らす博徒でした。
それでも正義感のある人物で、演義では悪代官を懲らしめているのは張飛でしたが、正史では劉備が棒で打ち据えています(制止したのは関羽と張飛)。日本の清水次郎長のような侠客でしょうか。
乱世を生き残り、天下統一という野望を果たすためなら、保護してくれる人を次から次へと鞍替えして、ときには領地をもらってしまいます。それでも自分を慕ってくれる部下や民のためなら無茶もする。
義に篤いという部分は正史と演義に共通していますが、実際の劉備は私たちが思うようなひ弱な性格ではなく、すれっからしの人物だったようです。
一方、正史の曹操は「時代の変革者」としての英雄として描かれています。国教を儒教に定めながら、その理想とする道徳とはかけ離れて腐敗してしまった漢を打ち破り新たな時代を築くべく生涯をささげたのが曹操でした。
人材登用は人徳というようなあいまいな基準ではなく、個々の能力に応じた適材適所を目指しました。また、屯田制の土地改革や租調制の税制改革など、のちの時代にまで受け継がれる政策を打ち出しています。
劉備が次郎長ならば、曹操は織田信長と言ったところでしょうか。
軍略や文学にも長じている面は三国志演義でも描かれていますが、正史の曹操は、ちょっとパーフェクトすぎる人物です。
有名なあのシーンも創作だった!
小説である三国志演義には、読む人が楽しめるようなシーンが、演出としていくつも盛り込まれています。三国志ではおなじみの場面も、実は正史には描かれていないケースがたくさんあります。
たとえば、三国志演義の序盤の「桃園の誓い」。劉備、関羽、張飛がその後数十年にわたってともに戦い抜く物語の出発点であり、とても胸が熱くなるシーンです。
しかし、正史にはそのような記述はなく、作者の羅貫中が加えたもの。がっかりさせてしまったら、ごめんなさい。
でも、3人の絆がとても強いものだったのは、間違いないはず!
次は、三国志のクライマックスでもある赤壁の戦いでの場面。
呉の都督である周瑜に10万本の矢を10日間で集めてくれ、と無茶な要求をされた諸葛亮が、
「いや、3日でけっこうです」と言って、本当に集めてしまうエピソードです。
諸葛亮はカカシを乗せた船を引き連れて霧に紛れて魏軍の艦隊に近づきました。敵襲だと勘違いした魏軍はその船に大量の矢を浴びせ、諸葛亮は10万本を軽く超える矢を一夜にして集めてしまったのでした。
さすが諸葛亮!と感心してしまうような計略ですが、このエピソードのオリジナルは呉の君主、孫権についての話だったようです。
赤壁の戦いの5年後に再び曹操が攻め寄せてきたときに、運よく矢を大量に得ることができたことが、この話の元になっています。
創作だった名脇役たち
人物設定や場面設定だけでなく、そもそも正史には登場しない人物も80人近くいます。中でも驚きなのが、貂蝉です。
宮廷高官の王允の養女だった貂蝉は、
暴虐な振る舞いを続ける董卓と、その配下で天下無双の武人の呂布の仲を裂くために、その美貌で2人を魅了してお互いに嫉妬するよう仕向けたのでした。
この美女連環の計と呼ばれる策略は成功し、呂布は董卓を殺害したのでした。
しかし、自分の役目が果たされたことを確認した貂蝉は、呂布がやってくる前に自らの命を断ってしまいます。女性が物語の中心になり、切なさを感じさせる、三国志の中でも珍しいエピソードです。
貂蝉は古代中国四大美人の1人に数えられていますが、残念ながら架空の人物で、董卓の侍女がモデルだったのではないかと言われています。
呂布が董卓を殺害した理由は、少し前に2人の間でいさかいがあり、董卓が呂布に手戟を投げつけたことから、呂布が身の危険を感じて、やられる前にやってしまおう、となったのが動機のようです。
もう1人有名な創作人物としては、劉備軍の将軍である周倉がいます。つばの広い帽子をかぶったひげ面の姿に描かれることが多い周倉は、もともと黄巾党の賊でした。関羽が一時的に配下となっていた曹操軍を飛び出し、5つの関と6人の将軍を斬って劉備の元に駆けつけた「五関突破」のとき(これも創作ですが……)、
無事に関所をすべて通過した後に出会ったのが周倉でした。周倉は黄巾党の反乱が鎮圧されてから仲間の裴元紹とともに、臥牛山を根城とするただの山賊になっていました。
そこへ名高い関羽がたまたま訪れたのは、運命に違いないと周倉は2人と手下を配下にしてくれるよう関羽に頼みます。しかし、劉備軍に山賊を加えてもいいものだろうかと思った関羽は、劉備の許しを得てから公式に迎えることにします。
とりあえず周倉だけがついていき、裴元紹を留守番に残ったでした。残された裴元紹は迎えが来る前に、事情を知らない趙雲に賊退治として、さんざんに痛めつけられるオチがついています。
周倉はその後、関羽とともに荊州の守備を任され、呉との交渉で危機に陥った関羽を助けたり、魏軍の龐徳を捕縛するなど各所で活躍を見せています。
周倉の最期は、打ち取られてさらし首になってしまった関羽を見て嘆き悲しみ、城壁から飛び降りて自殺をしています。半生を関羽に捧げた印象深い武将です。
三国志ライターたまっこの独り言
劉備のやくざな実像は、漢の初代皇帝劉邦と重なります。三国志演義の劉備を見ていると、そこまで魅力があった人物なのかと、確かに疑問に思ってしまいます。しかし、侠客のような人物だったならば、戦争に負け続けても劉備が部下や民から親しまれていたのも納得できます。個人的には、正史の劉備の方が好きです。
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