12月11日に公開された『新解釈・三國志』三国志を爆笑コメディにした同作品は、大ヒットしていますね。しかし、長い長い三国志の物語を2時間の映画にまとめているので、三国志初心者にとっては疑問点も多いようです。
そこで今回は、どうして劉備は国を持っていないのに、趙雲とかの部下を養えるのか?この疑問について解説してみたいと思います。
この記事の目次
劉備が国もないのに家臣を養える理由はズバリ!
では、どうして劉備が国もないのに、趙雲のような家臣を養えるのか?お答えします。
それは、傭兵隊長として雇われ先から給与が支払われているからです。
劉備は黄巾賊討伐の後、小さな県の警察署長の職をクビになって以後は、公孫瓚、陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表、劉琦のような群雄の傭兵隊長として、土地と人民を貸してもらったり、直接、穀物を支給してもらうなどして、それで部下や兵士を養っています。
普通は、このように群雄から群雄をタイミングよく飛び移るのは難しく、山賊に身を落とすなどして犯罪者のお尋ね者になるものですが、劉備はその辺を上手くやり自分のブランドイメージを維持できていました。さて、疑問にお答えした所で、以下は三国志と給与について考えてみます。
戦乱の世で食っていくのは大変
三国志には元は群雄だったけど、食えなくなって山賊に落ちぶれてしまう人がいます。董卓の部下だった張済などもそのケースで、献帝が長安から洛陽に移ってしまうと、食糧が欠乏するようになり、荊州北部で略奪を行い穣県を攻撃している時に、婁圭という人物に討ち取られてしまいました。
この婁圭も荊州北部に地盤を持っていたものの安泰ではなく、王忠という人物に撃ち破られて、曹操を頼り逃げています。
劉備にしても、こうならなかったという保障はありません。兵士への食糧支給は1日だって欠かせないものであり、下手をすれば不満を持った兵士が結託して劉備を襲って首を獲り、よそに寝返るかも知れないからです。そこで、劉備は世渡りには極めて神経を使っていました。
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世渡り上手な劉備
劉備は、その生涯で何度も群雄の間を転々としていますが、行き当たりばったりではなく、ちゃんとそれなりの根回しをしていました。
それは以下の図を見てみると一目瞭然です。
公孫瓚 | 昔、盧植の塾で一緒に学んでいた同門 |
陶謙 | 公孫瓚からの援軍としてやってきて居つく |
呂布 | 国を奪われたが下手に出て部下になる |
曹操 | 呂布攻略の任を引き受け前線に駐屯 |
袁紹 | 袁紹の息子、袁譚を茂才で推挙した恩人アピール |
劉表 | 曹操の情報を伝え、対曹操の前線の城を守る |
劉琦 | 劉表に冷遇されていた劉琦と交流があった |
御覧のように、劉備は偶然とも意図的とも思える方法で、危うくなると次の群雄に飛び移り、部下を途切れなく食わせる事に成功していました。例えば劉表などは、袁紹を見限り逃げ出す前に、部下の孫乾を送り込んで自分を受け入れてくれるか打診してからの逃避行です。
劉備としては、アポなしで劉表を頼り捕縛されて曹操に突き返される事を危惧したと考えられます。
兵士1人に配られる食糧は一日10合
この当時の兵士の給料は、現物支給で主に穀物が支給されていました。まとめて支給される事はなく、1日の終わりに1日分が支給されたようです。気になる支給穀物の量は、麦や稗、粟、大豆のような雑穀で1人で1日10合。10合というのは特大炊飯器1回分の分量ですので随分多いですね。
しかし支給は脱穀前の穀物だったので、実際に食べられる量は70%とかその辺りだったかも知れません。10合は一升で重さは、1.5キログラムになりますから、仮に劉備に兵士が1000人いれば1日で1.5トンもの穀物が消費される事になります。これは誰かの世話になるか、自分で支配地を持っていないとすぐに山賊に転落するしか道がないですね。
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