三国時代の礎を築いた劉備や曹操と比べると少し地味な印象のある孫権。
三国志演義でも部下の優秀さが際立ち、孫権自身はあまり目立たない存在になっています。しかし、業績の良い会社は社長があまり目立たず、部下たちが伸び伸びと仕事をしていたりするもの。
そう考えると孫権は若くして江東を治めた有能な人物と言えます。ただ、晩年はビックリするほどミスが目立ち、暗君とも言えるような印象に。そこで今回は孫権のエピソードからその人柄と後年の暴走の背景について考察をしていきたい思います。
この記事の目次
若かりし頃の孫権
孫権が家督を継いだのは西暦200年、19歳の時です。兄の孫策は死の間際に孫権は人を用いるのが上手いと評していますし、周瑜も似たような評価を下しています。
魯粛からは漢王朝復興ではなく自ら帝位に就くよう勧められるなど、若い頃から才覚にあふれていたようです。実際に孫策死後におきた反乱を治め、早期に地盤を固めている点を見ても配下たちをうまく扱っていたことがわかります。
会社で言えば若くして後継となった社長はたいてい経営を悪化させるものですが、孫権は逆に荊州や交州など領土を拡大させているので、器量は父や兄以上だったのでしょう。
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戦は強くはないけど機転は効く孫権
孫権は合肥の戦いで自ら兵を率いて戦場に赴き、少数で奇襲をかけた張遼に追い回されるという失態をおかしています。
そういった点を見ると戦はあまり上手くないのかもしれません。しかし、曹操が孫権の船に矢を大量に射かけ、重さで船が傾き出した際には反転して転覆を防ぐなど機転は効くタイプです。
曹操も「子どもを持つなら孫権のような人物がいい」と言っていますが、これは自身が機転によって乱世を生き抜いてきたからこそ、後継者にもそういった器量があってほしいと願ったのではないでしょうか。
孫権はいたずら好き
孫権は人の扱いが上手かった反面、時には失礼とも思えるようないたずらをして、部下たちをからかっています。例えば、趣味だった虎狩りに出かけた際に虎に反撃され、張昭が危ないから狩りをやめるようにと諌められました。
しかし、狩りはやめずに装甲車のようなものを作って狩りを続けるなど天の邪鬼な一面も。
またある時は、諸葛瑾が馬面だったことからロバに「諸葛瑾」という名札をつけてからかうなど子どもっぽいことをしています。
人を見る目があった孫権なので、このくらいなら怒らないだろうと計算をしていた可能性はありますが、若くしてリーダーとなったため無邪気さや幼さが抜けなかったのかもしれません。
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敵からするとしたたかな相手
孫権は兄から受け継いだ江東という基盤を拡大していったわけですが、その際に多く用いられたのが外交と軍事の使い分けです。劉備に貸していた荊州が帰ってこないと見るや、それまで戦っていた曹操と和睦し、関羽が曹操軍と戦っている隙に南郡を奪取。
劉備が夷陵の戦いを反省すると再び蜀と同盟を結んで魏の領土を攻め取っています。局面に応じて外交と軍事を巧みに使いこなして版図を広げていることから、魏や蜀からすると非常にしたたかでやりにくい相手だったと言えるでしょう。
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