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蜀の名将・姜維の子孫「姜宝誼」「姜恪」「姜協」はどんな人?唐の時代に活躍した?

2022年3月1日


 

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剣閣で守りを固める姜維

 

諸葛亮(しょかつりょう)亡きあとの蜀の中心人物と言えば「姜維(きょうい)」です。とても武勇に優れ、蜀の末期を必死に支えましたが、結局は力及ばず悲劇の武将です。そんな姜維は悲しい最期を迎えるのですが、その子孫はいるのでしょうか?

 

今回は姜維の子孫について探ってみたいと思います。先ずは姜維について紹介しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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姜維、当初は魏に仕えていた

姜維

 

姜維は涼州(りょうしゅう)の天水郡の生まれです。姜氏はこの地方を代表する豪族であり、姜維の父も功績をあげた人物でした。姜維も郡に役人として出仕し、のちに魏に武将として仕えることになりました。

 

魏から蜀に下る姜維

 

しかし、諸葛亮が魏を攻めた際、当時の上司に内通を疑われてしまい、姜維は行き場をなくしてしまいました。その為、やむを得ず蜀に降伏し、仕えることになったのです。

 

関連記事:魏からの降将である姜維と王平はなぜ蜀軍の中心になったのか?

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姜維は蜀軍の中心として活躍するが、北伐は成功せず

孔明と姜維

 

諸葛亮は姜維の事を高く評価し、北伐に従軍させるなど、昇進をさせました。諸葛亮の死後は蜀の軍事を担う中心人物となっていき、異民族の討伐、魏との戦いで武勇をとどろかせました。

 

北伐したい姜維を止める費禕

 

姜維は諸葛亮が果たせなかった北伐を悲願としていました。しかし当時の蜀の実質的トップの「費禕(ひい)」は「内政に力を注ぎ、人材の育成を待つべき」と姜維にわずか1万の兵しか与えなかったといいます。

 

費禕の没後、北伐の準備に取り掛かる姜維

 

費禕の死後、姜維は堰を切ったように北伐を繰り返します。この北伐は魏の武将を斬るなどの成果もありましたが、結局は成功せず、蜀の国力は衰退します。

 

劉禅に気に入られる黄皓

 

また、姜維は軍事ばかりに力を注いでいたため、いつの間にか蜀主劉禅(りゅうぜん)は宦官を信用し、政治は混乱していました。

 

関連記事:蜀を滅亡に導いた戦犯は費禕?その根拠を解説

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蜀は滅び、姜維は一発逆転に失敗する

司馬昭から蜀の討伐を命じられる鍾会と鄧艾(トウ艾)

 

その混乱を察知した魏は、蜀の征伐を決意。鐘会(しょうかい)鄧艾(とうがい)を派遣し、蜀を攻撃します。

 

剣を石にたたきつけて剣を折る姜維

 

姜維は蜀の要衝「剣閣(けんかく)」で鍾会の攻撃を必死に防ぎますが、鄧艾が思いもよらないルートで蜀の首都成都を強襲し、蜀主劉禅は降伏してしまいます。この報を聞いた兵士たちは怒り、剣を岩に叩きつけたといいます。

 

降伏した姜維をもてなす鍾会

 

姜維は鍾会の軍に降伏することになり、彼と親交を深めていきます。鐘会も姜維を高く評価していたようです。

 

自分を気に入る鍾会を蜀の復活に利用できると考える姜維

 

そこで姜維は鍾会の野心を見抜き、独立をそそのかします。

 

鍾会に謀反の疑いを讒言され処刑される鄧艾(トウ艾)

 

鐘会は同意し、蜀の政治の主導権を握る鄧艾を讒言で逮捕することには成功しますが、反乱は失敗。

 

無残な最期を遂げた姜維と鍾会

 

鐘会は殺され、姜維も妻子とともに殺されてしまうのでした。

 

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三国志演義では大活躍

三国志演義_書類

 

小説「三国志演義」では諸葛亮の正式な後継者として大活躍します。

 

孔明と姜維

 

諸葛亮が魏にいた彼を引き入れるべく知恵を絞ったり、北伐で武功を挙げるなど、あまり姜維の悪い部分には触れないような感じになっています。

 

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姜維の子孫「姜宝誼」、唐の時代に現る!

殺害される姜維と鍾会

 

前述の通り、姜維は妻子ともに悲しい最期を迎えてしまいます。しかし、姜維の死から約400年後、唐の時代に彼の子孫が史書(新唐書、宰相世系)に登場します。それが「姜宝誼(きょうほうぎ)」です。彼は姜維と同じ天水地方の生まれです。

 

姜宝誼の父、そして祖父も「刺史」(県知事のような役職)についていることから、代々この地方の名士だったと考えられます。隋の時代末期に軍事で功績をあげ、将軍職を授けられ、活躍をしました。

 

その後は隋から禅譲された唐に仕えました。しかし、当時の中国は各地で皇帝が名乗るものが続出し、混乱状態でした。唐は皇帝を名乗った「劉武周(りゅうぶしゅう)」の攻撃を受け、姜宝誼は撃退のために派遣されました。しかし、捕えられ結局は殺されてしまいます。唐の高祖は姜宝誼を信頼していたようで、彼が捕えられた際に嗚咽したそうです。

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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