来年の大河ドラマが「真田丸」と言うことで、今回、真田幸村(さなだゆきむら)の父で天下三大兵法者と称された真田昌幸(さなだまさゆき)と魏の智謀の臣として名を馳せた司馬懿(しばい)。
二人の類似点がいくつかありましたので、今回ご紹介します。
この記事の目次
司馬懿と真田昌幸の共通点:智謀に優れた点
司馬懿は読者の皆さんが知っている様に非常に優れた智謀を持った武将です。
蜀の諸葛孔明と戦った五丈原の戦いでは、孔明との決着はつきませんでしたが、魏の領土をしっかりと守り抜いて、彼の名前は一躍有名になります。
しかし、司馬懿の智謀が発揮されたのは、五丈原の戦いの後からです。
遼東半島の勢力である公孫淵(こうそんえん)を従わせるため、魏の政府は司馬懿に公孫淵討伐を命じます。
この時、魏の皇帝である曹叡は「公孫淵は一体どのような策を取るだろうか」と司馬懿に質問します。
彼は「城を逃げれば、彼は優れた知を持った武将で、討伐にも時間がかかるでしょう。
ですが彼はそんな優秀な人物ではありませんので、遼東の往復に200日、戦闘に100日。遼東討伐には一年ほどあれば公孫淵を討伐する事が可能でしょう」と進言し、出陣します。司馬懿はこの予想通りに戦いを運び、公孫淵討伐を完了させ、魏の国内でも司馬懿の智謀のすごさが響き渡ります。
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上田城の戦い
真田昌幸の智謀も優れています。
彼の知略が日本全国の大名に知れ渡ったのは「上田城の戦い」です。
この戦いは徳川家康が昌幸を服従させるために、真田領に侵攻した事で発生した戦いです。
ついでにこの時の真田軍は2000人です。
徳川軍は7000人の大軍で攻撃を仕掛けます。徳川軍は一気に昌幸の居城である上田城の二の丸まで攻め込むことに成功します。
ここまで攻め込まれたのは、昌幸の作戦でした。
徳川軍は二の丸に猛攻をかけていましたが、真田軍の逆襲に遭い、二の丸から退却する事になります。
しかし徳川軍は上田城の構造が迷路状であったため、退却がスムーズにおこなえず大混乱になります。
そんな中昌幸率いる真田軍は、徳川軍に猛攻をかけ、徳川軍は損害を出しながらもなんとか城外に退却する事に成功します。
徳川軍は城外で体勢を立て直そうと試みるが、側面から
昌幸の長男・信之が攻撃を仕掛けたため、
城内の昌幸率いる真田軍と信之の軍により徳川軍は態勢を立てなおす事が出来ず、再び退却します。
昌幸は猛追撃をかけ、徳川軍を神川に叩き落とし、大勝利を得ます。
この時の真田軍の死傷者は100未満であったのに対し、徳川軍は1000人以上の死者を出すことになります。
昌幸はこの戦いで大勝利をおさめた事で全国の大名から注目される事になるのです。
智謀に優れた司馬懿と昌幸の共通点の一つですね。
司馬懿と昌幸の共通点:味方から警戒される
司馬懿は優れた智謀を持ったゆえに、敵から警戒されるのではなく、味方からも警戒されます。
司馬懿は曹操(そうそう)に命令され仕えたくもないのに無理やり仕えさせられた挙句、彼から警戒されます。
曹操は司馬懿に色々な質問をします。
彼は即座に答えたそうです。曹操は司馬懿の頭の回転の速さを警戒し、息子の曹丕(そうひ)を呼んで
「司馬懿を用いる時は、警戒を怠るな。」と忠告します。
曹丕は曹操も忠告を耳に入れるも、司馬懿を用いていきます。
曹丕の死後、息子の曹叡も司馬懿を重要な地位に就け、対蜀戦線や遼東討伐戦、荊州の守備などあらゆるところに彼を用いていきます。
しかし曹叡の死後、彼は曹氏一族や魏国の重臣からその智謀を恐れられ、大いに警戒されます。
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真田昌幸も知略面で味方から警戒される
真田昌幸も知略面で味方から警戒されています。武田信玄・勝頼と武田家2代に仕えます。
信玄時代は、信玄の目と言われるほどの状況判断力や客観性を持っていた事から、将来を有望視されます。
勝頼が武田家の当主になると、味方の諸将から警戒されます。武田家が織田家や徳川などの諸大名から攻められ、必死に抵抗します。
しかし味方が相次いで織田家や徳川家に裏切りが発生し、武田家は滅亡の淵に立たされます。
そんな中、武田家の残った諸将で勝頼が避難する場所を決める会議が開かれ、昌幸もその会議に出席します。
昌幸はすぐさま発言し「御屋形様(勝頼)、甲斐を捨てて、われらの城である岩櫃城へ避難すべきです。
この城は天然の要害で、そう簡単に攻められません。もし攻め込んできたとしても、上杉家との国境に近いため、援軍を呼ぶこともできます(当時武田と上杉家は同盟関係にあった)。このような好立地の場所にある岩櫃城へ避難し、時勢が変わるのを待つのが最善の策であると思います。」と勝頼を必死に説得します。
しかし、武田家の重臣である小山田信茂が「真田は御屋形様を城に迎え入れたとたんに裏切るかもしれません。そんな危険な城よりも私の領内にある岩殿城に来る方が安全です」と自分の領内にある岩殿城へ来るように説得します。勝頼は迷いましたが、昌幸を警戒したため。
信茂の意見を採用する事になるのです。司馬懿と昌幸は優秀な知略を持っているがゆえに味方から警戒されてしまう。
二人に共通している点ではないでしょうか。
司馬懿と昌幸の共通点:敵から恐れられた智謀の臣
司馬懿は敵から恐れられる存在になります。
公孫淵は司馬懿が遼東征伐を行うべく出陣したと聞き、呉に援軍を送ってくれるように依頼します。
孫権は援軍依頼の内容を聞き「司馬懿は手足のように兵を使うと言われており、このような難敵と戦う羽目になるとは、同情する。しかしわが軍を援軍に出すことはできない」と司馬懿を恐れていたため、援軍を出さなかったそうです。
このように孫権からも恐れられた人物でありました。
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徳川家康から恐れられていた真田昌幸
真田昌幸も徳川家康から恐れられておりました。
家康は上田城の戦いで徳川軍に大敗北した事で、真田家を大いに恐れます。
関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠は真田の領地付近である中仙道を大軍で進軍しておりました。
父家康からは「急いでくるように」と厳命を受けていました。
秀忠は中山道の途上にある昌幸を臣従させるべく、徳川家臣となっている真田信之に昌幸を説得するように命じます。
しかし昌幸は理由をつけて中々降伏しません。そんな中、昌幸は秀忠に「理由をつけて、返答を先延ばしにしたのは、戦う準備をしていたからだ。さあ準備は整ったのでいつでもかかってこい」と書状を出します。
この挑発した文章は秀忠を戦いに引き込むための秘策です。
上田城に秀忠率いる軍勢を引きつけておけば、秀忠の軍勢は戦場に到着できなくなり、東軍の軍勢は半減します。
そうなると西軍が勝つ可能性が上がると予測し、この作戦を実行します。
秀忠は書状を受け取ると激怒し、真田討伐の軍勢を出陣させます。
しかし徳川軍は昌幸の作戦の前になすすべもなく、大敗北します。
昌幸は秀忠を見事に戦いに引き込む事に成功します。
その後、家康は、関ヶ原の戦いで勝った後、昌幸を処刑しようとします。
しかし、昌幸の長男である信之と信之の妻・稲姫の父である本多忠勝の助命嘆願により、何とか昌幸は処刑されずに済みます。
このように智謀に優れていた事で敵から恐れられた点が二人の共通点であると思います。
三国志ライター黒田廉の独り言
今回は日本の戦国時代一といっても過言ではない智謀の士・真田昌幸と魏国一の智謀の臣司馬懿を比較してみました。
頭が良すぎるというのも中々つらいものですね。
やはり、何事にもほどほどが良いとこの二人を見て思いました。
皆さんはどう思いましたか?
今回のお話はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。それじゃまたにゃ~♪
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