徐栄は三国志の序盤に登場する董卓に仕えていた武将です。董卓配下と言うともれなく腕力だけのDQNイメージが強いですが徐栄は例外的に知的な戦い方を見せ、序盤とはいえ孫堅と曹操を撃ち破った事もある名将でした。
しかし、およそ世渡りという概念がないサラリーマン的将軍だった徐栄は時代の流れを読み違えて、敢え無い最期を迎えてしまうのです。
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徐栄は中華の東の果てで誕生
徐栄は幽州玄菟郡という中国の東の果てで生まれました。この辺りは異民族と漢族が混交している土地で騒乱も多く、ここで育った人物には公孫瓚や劉備のような野戦の名手が多いです。
そして、徐栄もその例にもれず後漢末期に立派な働きをする事になりました。
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董卓に仕え中郎将になる徐栄
幽州で生まれた後、成人してどこで何をしていたのか一切不明ですが、徐栄は189年頃、董卓の中郎将として歴史に登場します。
しかしこの頃、流行歌で謗られ冀州刺史を追われた同郷の友人の公孫度を遼東太守に推挙して董卓に容れられている事から、恐らくは公孫度のように幽州から中央に登用されて郎になり、その後涼州で武官として活躍していたのかも知れません。他人を推挙するなんて、董卓の現地採用組DQN武将にはできそうもないからです。
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董卓軍の主力として曹操を撃破する徐栄
西暦190年、袁紹等が反董卓連合軍を結成すると、徐栄は李蒙と共に董卓の命令で豫洲へ出撃。滎陽県汴水で曹操・鮑信連合軍と遭遇するとこれを撃破し、衛茲や鮑韜を討ち取りました。
この敗戦で曹操は馬を失い矢傷を負いますが、徐栄の追撃は容赦のないものでした。曹操の部下の曹洪は、この時に馬を下り曹操に与えて逃げるように言います。しかし曹操は敗戦で自棄になっていたのか「このまま討死してもいい」とばかりに曹洪の馬を突き返しました。
ここで曹洪が「天下に私がいなくても影響はないが、曹孟徳はおらねばならん」と激励正気を取り戻した曹操は、馬に乗り曹洪は歩いて従って汴水に到達します。
徐栄は曹操が敗北しながらも、粘り強く防戦する様子を見て、味方の被害が甚大になる事を予想し追撃を諦めて引き返しました。
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百戦錬磨の孫堅も撃破する徐栄
さらに翌年191年、梁県で徐栄は孫堅軍と交戦してこちらも撃破し、潁川太守の李旻と張安を生け捕りにして煮殺しています。
群雄としてはひよっこの曹操と異なり、当時の孫堅は黄巾の乱以前から農民反乱を度々鎮圧し韓遂の反乱軍も撃破したベテラン将軍なので、これを撃破した徐栄の指揮能力の高さはかなり高いと言えるでしょう。
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サラリーマン将軍・徐栄
功績を上げた徐栄ですが、董卓は長安遷都後に呂布と王允の陰謀で暗殺されました。董卓の率いた涼州軍閥は動揺しましたが、徐栄はすんなりと王允に仕える道を選びます。
ちょっと見ると、引き立ててくれた董卓に対する裏切りですが、そもそも献帝を庇護しているのは、この時点では呂布と王允なので漢王朝の臣下である徐栄には当然の選択だったのかも知れません。
そういう意味で徐栄はヤマっ気がなく、忠実に政権を担う人間に従うサラリーマン将軍だったと考えられます。意地悪な見方をすれば、どちらについた方が得か?という乱世の世渡りを制する才能は、徐栄には無かったのでしょう。そして、この世渡りの才能のなさが徐栄の運命を決してしまいました。
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