呉の大黒柱孫権、はじ三では部下にアルハラを繰り返すアル中ヒゲダルマとしてお馴染みで、kawausoも書いていて一番楽しいキャラクターです。そんな孫権の晩年は老害と言われますが、実際の臨終の間際の孫権はどんな感じだったのでしょうか?
二宮の変後
太元元年(251年)夏、五月、混乱を極めた二宮の変を孫和を幽閉し孫覇を自殺させて収めた孫権は、末子の孫亮を皇太子にし孫亮の生母の潘氏を皇后に立て大赦し改年しました。
二宮の変は孫権の強引で残酷な行動が多いですが、この頃には孫権に深刻な体調不良があったかも知れません。その理由については、次の頂で説明します。
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孫権、神人王表を招く
これより少し前、臨海郡の羅陽県に神人がいて王表と名乗っていました。王表は紡績という女の召使を連れ、様々な土地を渡り歩き、現地の人々と交流し会話も飲食も常人と異なる所はありませんでしたが、姿形を見せなかったようで、紡績が依代になり、王表の言葉を伝えていたと推測されます。
孫権は、神人王表の評判を聞きつけて、中書郎李崇を派遣し輔国将軍、羅陽王の印綬を持たせ、王表に都に来るように依頼しました。
はい!出ました!
健康に不安を抱えた君主が怪しげな神人に縋り、奇跡を願うという典型的テンプレですね。
元気な頃の孫権は、まあ、張昭と神仙の話をしたりはしていますが、そこまで迷信深い逸話はないので、この頃の孫権は健康に深刻な悩みを抱えていたと推測されます。
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孫権、王表に屋敷を建てる
王表は李崇と合流して招聘に応じ、李崇及び所在の郡守や令長と談論しましたが、王表の言葉は巧みで、李崇達は王表を言い負かす出来ませんでした。また、この王表、山川を巡る時には女の召使を派遣して、その神に挨拶させたそうです。
秋7月、李崇は王表と建業に到着。孫権は蒼龍門外に屋敷を建て王表を住まわせ、しばしば近臣に酒食をもたせて、色々の質問をしました。その質問の中で、王表は大雨や旱魃、小さな事件などを予言し多くを的中させたと言われています。
同年8月、大風が起こり長江、海とも溢れて水深は八尺になり、呉の高陵の松柏が枯れて抜けてしまい、呉の郡城の南門が崩れ落ちました。こういう事もあり、孫権は冬11月に再び大赦を出して人心の動揺を抑えようとしています。
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孫権、風疾に倒れる
その後、孫権は南郊において祭事を行い帰還した後、病に倒れ床に臥すようになります。
呉録によると孫権は風疾に罹ったとあり、風疾は現在ではリウマチ、痛風、中風のような病名と考えられています。アル中ヒゲダルマの宴会人生を考えると、長年の飲酒で血管がボロボロになって、痛風や中風を引き起こしたと考えるのが妥当な感じです。
ただ、痛風になったくらいで死を覚悟するほど、孫権はナイーブな人生を送っていないので、やはり、長年の飲酒で血管が脆くなり、体内で内出血を起こしたせいで、体に麻痺が残るような後遺症が出たのではないでしょうか?
同年の12月、死を予感した孫権は孫亮の筆頭補佐役として諸葛恪を指名して早馬で知らせ、詔を発して賦役を免じ、税金を軽くして民の負担を軽減しました。やたらめったな大赦が、孫権の先の短さを象徴している感じです。
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皇后潘氏が殺害される
太元二年(252年)正月、孫権は二宮の変の処分を少し変更。元の皇太子の孫和を南陽王として長沙に置き、子の孫奮を斉王とし武昌に置き、さらに子の孫休を瑯邪王として虎林に置きました。
2月には、再び大赦し、改元して神鳳とします。しかし、孫権が皇后に立てた孫亮の生母、潘氏が宮廷の人間に殺害されました。不安を感じた諸々の将軍や官吏は、しばしば王表に詣でて福を授けてくれるように要請しますが、王表は呉の大乱を予感したのか逃亡してしまいます。
こうしてみると王表はやはり、混乱の世の中に乗じて富を得ようとするインチキくさい、予言者や食わせ物の類だったのかも知れません。この混乱の中で4月、孫権が71歳で死去します。不穏な雰囲気が漂った状態での孫権の寂しい最期でした。
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孫権は神人に惑わされなかった
ここまでが最晩年の孫権の行動ですが、神人王表を歓迎した割には屋敷を建て、時々御馳走を持たせて色々な予言をさせただけで、国政に関与させて国庫を傾けるような、痛い盲信はしていない様子が窺えます。
もし、死の不安から不老不死の執念に憑りつかれていたなら、もっと散財して国を混乱に陥れた後で王表に逃げられ、はい!騙されました。
ぎゃふん!
みたいになりそうですが、そうではないので、ある程度自分の死期を受け入れた上で、神人の予言を聞いていたようです。
それ以外では、大赦や改元が頻繁になっていますが、国力の低下を憂いて、少しでも人民を休ませ、孫亮の時代が穏やかに進むように考えたのでしょうか?
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は孫権の最晩年について、色々と考えてみました。神人を招聘したあたりで、ありもしない不老不死や予言に縋るかと思ったのですが、老害化したとはいえ、半世紀も呉を牽引しただけあり、胡散臭い連中への距離の取り方の感覚までは、失っていなかったようです。
後世から老害と決めつけられる孫権ですが、最晩年に至っても怪しげな予言者を信じて呉を傾けるまでには至っていないので、老害なりにギリギリのバランスは保っていたと考えられます。
参考文献:正史三国志呉主伝
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