三国志と呼ばれる時代は、黄巾の乱が起こってからの群雄割拠の時代、そこから広がっていく三国の時代、そしてその三国が滅んでいく時代……と追いかけていくと、長い時代が「三国志」となります。
その間に様々な英雄たちが生まれ、そして長い時代だけに英雄たちの子供たちも生まれてきますね。
英雄の子たちと言われても評価は様々、中には「父君と違って家畜だ!」とか言われてしまうのもいますが……今回は正に父の子、というべき武将、朱異についてお話しましょう。
この記事の目次
朱異は呉の猛将朱桓の子
朱異は字は李文といい、前述したように、呉の猛将、朱桓の子供です。238年に、朱桓はこの世を去ります。朱桓はいつも配下の兵士たちに自らの私財投じて恩賞を与えていたこともあり、とても慕われていたのですが、このために朱桓の家は私財がなく、孫権は葬儀代を与えたと言います。
そうして朱桓の跡を継ぎ、騎都尉となったのが朱異です。
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若い頃から期待され文欽を破って名を挙げる
朱異は幼い頃から朱拠に「聡明である」と言われ、更に孫権と同席して軍議を交わした際に、その応対に孫権は非常に朱異を評価しており、その後にわざわざ朱拠に「噂通りだな!」と声をかけたほどでした。
因みに朱拠は朱桓の従弟であり、朱異から見れば父親の従兄弟のおじさんくらいの人になる人物です。実際に朱異は父親が亡くなった後、樊城攻めで功績を挙げ、文欽を打ち破るなどの働きを見せています。しかし既に孫呉の未来には陰りが見えているのでした。
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諸葛恪の采配に我慢できずに暴言
そして孫権亡き後、魏の大軍が攻めてきます。当初こそ水軍を使って勝利したものの、この勝利が仇となったのか、呉のロバさんこと諸葛瑾の息子、諸葛恪が合肥新城に攻め込みました。
ここで朱異は別の策を出すも、諸葛恪はこれを聞き入れず。怒って暴言を吐いてしまい、諸葛恪に兵士を取り上げられてしまいました。
……この辺は何というか、朱桓の子ですねぇ。
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【北伐の真実に迫る】
諸葛恪の死後
さてこれ以降、朱異は、というよりも呉は追い詰められていきます。諸葛恪は既に死んでしまった後ですが、朱異は孫チンの元で働くことに。そして257年に魏で諸葛誕が謀反を起こしました。ここで朱異は孫チンの命令を受けて援軍に行きます。
しかし先行した文欽らは寿春に入れましたが、朱異は包囲軍に阻まれてたどり着けません。
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孫綝に盾突いて絞殺される
何とか包囲軍を破ろうとするも失敗。その後は丁奉と共にまたこの包囲軍を攻撃するも、やはり破ることはできず。苛立った孫チンは再び朱異に出撃を命じるも、朱異はこれを拒否。
怒り狂った孫チンは朱異を呼び出し、その際に陸抗がこれを警戒するようにというも朱異はこれを聞き入れることなく、赴いた先で孫チンによって絞殺されます。
しかし結局、孫チンは寿春援軍には失敗し、この一件で多くの人々の恨みを買うことになりました。
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