三国志の武将たちには当然ながら死因があります。この死因には討死の他にも病死であったり、おそらく老衰によるものであったようなものも見受けられますね。
面白いと言っては何ですが、これらの死因は三国志演義では討死の方が演出的に良いと思われたのか、病死から討死に変わっていたり、壮絶な討死のはずがなぜだかナレ死したりと、変化しているものが多いです。
さて今回はその死因の中でも、ひと際変わった死因だったと言われる陳登のお話です。
陳登とお父さん・陳珪
陳登と言われて「?」とこない人は、陳親子、陶謙、というキーワードで思い出しては頂けるでしょうか。そう、三国志演義では陶謙はかなり立派な人物として描かれ、行き違いから曹操に恨まれるが、そこに人徳の非と劉備がやってきて……紆余曲折後に徐州は劉備に譲られることとなります。
陳登と、その父親の陳珪はこの徐州太守、陶謙に仕えていました。そしてある日、父親を徐州で殺された曹操が復讐戦にやってきます。
この曹操の大軍による徐州大量虐殺と呼ばれる戦いが繰り広げられ、徐州は最早これまでかと思われた矢先。
こちらもCHECK
-
【閲覧注意】寄生虫が原因の症状が怖すぎる!寄生虫で死んだ陳登(ちんとう)はじさん臨終図巻
続きを見る
呂布「助けに来たぞ!」(※確かに来た)
呂布が陳宮らと共に、曹操のエン州で反乱を起こしたのです。この呂布の反乱自体は荀彧や程昱らが奮戦して時間を稼いだため、引き返すことができた曹操は何とか呂布を追い返すことに成功しました。
徐州は助かったのです。この後、陶謙は病死し、後継者に劉備が選ばれたため、陳登は劉備に仕えることになりました。
が、そこにやってきたのもまた呂布。劉備に迎え入れられた呂布は、最終的に徐州を奪ってしまったのです。
こちらもCHECK
-
陳宮と陳登の二人を呂布が用いれば曹操が滅亡してた?
続きを見る
日替わり弁当かな?
さて陳登はいきなり主となった呂布が気に入らず、追い出すための行動をしていました。呂布も呂布で陳登が自分を気に入らないことは察していましたが、徐州の有力者となっている陳親子をどうにもできないことも分かっていました。
このため呂布は、陳登の三人の弟を人質としていたのです。が、曹操がやって来ると陳登は弟三人に目もくれず、先陣となって呂布軍を攻めました。これにヤバいと感じたのか呂布の部下は人質を連れて降伏する始末。
そして呂布がいなくなると再び劉備が帰ってきました。その後、曹操が徐州を劉備から取り返しました。つまり陶謙→劉備→呂布→曹操→劉備→曹操という訳ですね。なかなか落ち着かない土地です。
こちらもCHECK
-
劉備が徐州を譲り受けるきっかけとなったのは陳登と孔融のエピソードがあった!
続きを見る
孫策との戦い
さてそんな支配者が目まぐるしく変化する中、陳登は親族が孫策とついでに袁術にやられていたことに腹を立てたのか、反乱を起こさせたりしていました。
これにブチ切れたのが江東の小覇王。たくさんの兵士たちを引き連れて江陵に攻め込みます。が、陳登も英傑たちの下でいくつもの経験を積んだ猛者。諸葛亮も驚きの空城の計(ちょっと違うか)で孫策軍の油断を誘い、夜襲からの勝利を決めました。
こちらもCHECK
-
孫策涙目になるほどのフルボッコ!?小覇王をコテンパにした陳登
続きを見る
【次のページに続きます】