呉は虎を手に入れた。蜀は龍を手に入れた。そして魏は狗を手に入れた。そう例えられたのは諸葛一族、そして狗と例えられたのが諸葛誕その人です。文字の印象だけ考えてしまうと、虎と龍に比べて狗か……なんて思ってしまいますが、それについてはまた後程。
今回はこの諸葛誕と、その息子である呉の武将、諸葛靚についてもお話しましょう。
この記事の目次
諸葛誕は諸葛瑾や孔明に負けない人物
諸葛誕は呉でも蜀でもなく、魏の武将です。若かりし頃に仕官した際には、前述したように狗と例えられたと言います。これについてはまた後で触れるとして、諸葛誕は諸葛瑾、諸葛亮にも劣らぬ才覚の持ち主であり、周囲に高く評価されました。
この際に同じく評価されたのが夏侯尚の息子であり、曹真大将軍の甥となる夏侯玄らだったのですが、時の皇帝曹叡には疎まれました。
諸葛誕はどうして狗なのか?
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見た目も良かった諸葛誕
さて画餅とは絵に描いた餅のこと。つまり曹叡は夏侯玄や諸葛誕の評判の高さを指して「食べることはできない」=「人間は評判だけでは評価できない」と言った訳ですね。
これは表面上の評判や華やかさを求める諸葛誕らを非難して言ったものとされ、これだけ見ると曹叡も中々厳しくも良い目線な気がしますが、当時は九品官人法などもあり「そもそも名声がないと出世の目すらない」時代ですから、諸葛誕らの全てをこれだけで非難するのは難しい所です。
ただし曹叡の死後は重用されるようになりました。また娘は司馬懿の四番目の息子の妻となり、親戚付き合いもあったようです。
九品官人法を制定した陳羣
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司馬懿の死後、地位を脅かされる狗たち
しかし司馬懿が亡くなり、司馬師が実権を握り出すと夏侯玄らが滅ぼされていくと、彼らと親しかった諸葛誕は急に不安に陥ります。因みにこの王リョウの息子に諸葛誕の娘が嫁いでいたので、郭淮だけでなく諸葛誕も王リョウとは親戚関係になりますね。
257年、司馬師の弟、司馬昭が魏の実権を握りました。司馬昭はこの時には既に諸葛誕の疑心を知っており、腹心・賈充の策によって朝廷から諸葛誕の司空への着任ということで、洛陽に召還がかけられました。
これを自分を排除する動きと見て、諸葛誕は反乱を起こします。この際に呉に息子、諸葛セイを送って援軍を要請しました。
諸葛誕が反乱を起こした理由
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兵士の心を掴んでいた狗、諸葛誕
結果から言うと反乱は失敗、諸葛誕は討死することとなりました。この際に諸葛誕の配下の兵士たちは降伏せず、そのまま斬られました。
斬られた配下の数百の兵士たちは「諸葛公のために死ねるのだ。何を恨むことがあろうか」と口々に言ったとされたる所を見ると、諸葛誕は兵士たちからは慕われていたようです。
諸葛誕はどうあれ名声がある人物、人気がある人物は夏侯玄を例として晋の世代には……と考えると、諸葛誕はここで爆発しなくともいずれは処分されていたのではないかと思います。
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