これであなたも知ったかぶり!春秋時代をザックリ紹介!

2016年3月15日

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kawauso編集長(石原 昌光)

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kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

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おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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信 キングダム

 

春秋戦国時代、未だ統一された事のない中華は500年の争乱に明け暮れていた。というのは、キングダムで有名なフレーズですが、何と言っても500年、その間の歴史を追うのは、好きな人でない限り大変ですよね?

 

張良

 

ということで、はじさんでは、500年の春秋戦国時代を、春秋時代、戦国時代に分けて、ざっくり紹介しようと思います。

 

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春秋時代の始まり、紀元前770年

 

紀元前770年、暗君として有名な周の幽王(ゆうおう)が褒姒(ほうじ)という美女に夢中になり元の妃であった申(しん)后と皇太子の宜臼(ぎきゅう)を廃して、褒姒を妃に立てました。それに、申后の父である申侯(しんこう)が立腹して異民族である西夷(せいい)、犬絨(けんじゅう)を味方に引き入れて、幽王を殺してしまいます。これを春秋時代の始まりとします、それまで絶対の存在だった周が異民族の犬絨や西夷ごときに滅ぼされた事で、権威は失墜します。

 

分裂した周を一本化した鄭(てい)の武公(ぶこう)

 

周は西周とそれに反発した諸侯が担ぐ東周に分裂します。戦いは、東周に軍配があがり、申后の子である平(へい)王が即位しました。この戦いで大きな功績を立てたのが鄭の武公です。同じく姫(き)姓で王家に繋がる鄭は、中位の諸候でしたが、周の危機を救ったという功績を誇って横暴に振る舞います。

 

平王は、武公に救われた弱みがあるので黙認したまま死にますが、次に即位した桓(かん)王は、武公の跡を継いだ荘(そう)公が周に挨拶にこない事を怒り、陳(ちん)蔡(さい)虢(かく)衛(えい)の四カ国を率いて、鄭を攻撃しますが、荘公に負け敗走します。この時、荘公の家臣は「さらに追撃しましょう」と言いますが、荘公は

 

「いや、天子の軍を追い詰めるのは良くない」と引き上げました。

 

喧嘩相手に情をかけられたマダオな周の桓王・・

 

ぶざまです!自分で喧嘩を売っておいて敗れ、さらに相手に

「可哀想だから、逃がしてやろうや・・」と言われてしまうなんて!!

 

いかに、弱っているとはいえ、中堅クラスの鄭に負けた事で、諸候は内心、周を侮るようになり、周の権威だけを利用して時代の覇者が天下に号令する時代になります。

 

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鄭は凋落、代わりに斉(せい)が覇者になる

太公望 釣り

 

鄭は、荘公の死後には、パッとしない君主が続き没落します。代わりに勢力を伸ばしたのは、太公望(たいこうぼう)を建国の始祖とする西の斉でした。斉は海に面していて、土地も広く、早くから貨幣経済が発達していました。内紛を勝ち上がった16代の桓(かん)公が、名宰相、管仲(かんちゅう)の補佐を得て、没落した周王朝に代わって諸候をリードするようになります。

 

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桓公、南の楚と激突してこれを降して覇者に

楚の旗と兵士

 

同じ頃、南方では楚が、周辺の諸国を併合して勢力を伸ばしていました。楚の勢いは長江を越えようとしていて、弱小国は、楚を恐れるあまりにその配下になってしまう有様でした。一方で、楚に反発する諸候は、斉の桓公を頼り結集します。桓公は、これら諸国を率いて、楚と戦い撃破しました。楚は、周王朝に封建されていない独自の国でしたが、ここで、一度、勢力を落し長江の南に引っ込みます。紀元前651年、桓公は葵丘(ききゅう)において諸候を集めて会盟を行い、中国史上最初の覇者になります。

優等生過ぎて覇者になり損ねた宋の襄(じょう)公

 

覇者となった桓公ですが、その頃から奢りが発生して愚かになります。元々、凡庸で管仲の献策を素直に聞く事だけが取り柄で覇者になった人ですから始末に負えません、いよいよ管仲まで病死すると歯止めは効かなくなり、後継者問題で斉は大混乱、死んだ桓公の遺体は埋葬もされず放置され、腐乱した体からは、蛆が湧くと言う悲惨な最期を遂げます。

 

そこで、覇者に近づいたのが宋の襄公でした。宋は、元々は殷(いん)の残された民が興した国であり、国民は誇り高く、融通が効かない所がありました。

 

襄公はそういう国民性の典型のような人で、斉の桓公が倒れた今、殷王の血筋を引く自分が覇者になって、中華世界を牽引しようという偉大な志がありました。襄公は即位すると、斉の争いに介入して宋に居た斉の公子、昭(しょう)を立てて孝(こう)公として即位させます。これによって襄公の声望は高まり桓公を真似て、孟(もう)で会盟を開きますが、宋の勢力が伸びる事を嫌った楚の重臣の手で拉致・監禁されて出席できず大恥をかきます。

 

宋の襄公フェアプレイ過ぎて大敗

 

怒った宋の人々は、当時中華最強の楚に決戦を挑むべきと主張します。襄公も、この声に応えて軍を集めて泓水(こうすい)の戦いを開始しました。当初、楚より早く戦場についた宋、そこに楚軍が出現して河を渡り始めます。襄公の宰相の子魚(しぎょ)が、これを見て、「今がチャンスです攻撃しましょう」と進言します。

 

しかし、優等生である襄公は、「敵が困っている時に攻撃するのは、仁者のする事にあらず」と渡河中の楚軍を攻撃する事を頑なに拒否しました。

 

「今は戦時で平時とは、わけが違いますぞ!」

 

子魚は、それでも説得しますが襄公は動かず、やがて体制を立てなおした楚軍によって、宋軍は撃破されました。ここから、無用の情けをかけて自分が危うくなる事を宋襄の仁と言います。襄公は、この戦で太股に矢を受けて、その傷が元で二年後に病死します。

 

晋の文公、楚を撃破して覇者になる!

重耳 文公

 

宋の襄公がしくじった後、次に覇者になったのは、晋の重耳(ちょうじ)でした。超大国、晋のプリンスとして40歳まで何不自由なく過ごした重耳ですが、父の献(けん)公が美女、驪姫(りき)の愛に迷い、彼女の言う通りに、重耳達を排除するようになると、危険を感じて国外に逃亡します。

 

そこから、19年間、重耳は、流浪公子として各国の世話になります。救われたり、侮辱されたり、止め置かれたり、尋常一様ではない苦労をした重耳は、誰もが一目置く、立派な君子に生まれ変わります。そして秦の軍勢を借りて、混乱する晋に戻ると、政敵を追放して文公に即位します。その頃、再び、楚は晋を倒そうと長江を渡ろうとしますが、文(ぶん)公は、諸候をまとめて楚に立ち向かい、城濮(じょうぼく)の戦いで撃破しました。その功績で紀元前632年、斉の桓公を継ぐ第二の覇者になります。

 

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第三の覇者になった秦の穆(ぼく)公

 

晋の文公と相前後して覇者になったのが、秦の穆公です。穆公は、秦が強大になる基礎を築いた人物で、他国出身者でも、優秀な人間をどんどん招いて高いポストにつけ、また周辺の小国を次々に討伐して、秦の勢力を伸ばしました。

 

晋が大混乱している時、穆公は秦の軍勢と共に重耳の弟の夷吾(いご)を送りこんで晋で即位させますが、恵王として即位した夷吾は、かなりの悪党で、秦への裏切りを度々、繰り返します。それに怒った、穆公が晋に送りこんだのが、恵王の兄だった重耳でした。

 

穆公は、恵王と違い、謙虚で慎み深い、文公を気に入り、両国は、しばらく友好関係でしたが、文公が死ぬと再び関係は悪化、穆公は、軍を送りこんで、晋軍を撃破します。当時、覇者の文公の国を倒した事で覇者に数えられますが、紀元前621年、死去します。

 

穆公と共に177名が殉死(じゅんし)し、秦の勢力が後退

 

穆公は、長命ならば、始皇帝を待たずに天下を統一したかも知れない傑物でしたが、彼の死後、秦は習慣で有能な家臣を177名も殉死させ、秦からは、有能な人材が消えてしまい、覇権争いから後退しました。

 

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第4の覇者、楚の荘(そう)王

 

秦の穆公に次いで、覇者になったのは長江の以南の楚でした。元々、楚は周に任命されたのではなく独自に王が出て領土を広げた中華諸国とは異質な王国です。その為に、周王と同等であるという意識から、これを軽んじて、他国が公止まりである時期から王を自称しています。

 

荘王は、即位から3年、わざと政務を取らずに遊び暮らし国が乱れるままに任せていましたが、命懸けで諫言をしてきた家臣が出るに至り動き出します。こうして壮王は、汚職をしていた役人数百名を殺し、同時に、壮王が遊び呆けていても、真面目に仕事をしていた役人数百人を積極的に登用します。これにより、楚からは汚職が追放され国力は強化されました。

 

挑発的な荘王は、洛陽の近くまで大軍を送って、閲兵式を行うなど圧力を掛け、晋軍を撃破するなどして影響力を長江の北まで拡大し紀元前591年に死去します。

 

王権が弱まり、貴族の時代が到来する

 

さて、荘王を最期として、しばらく中原の地域では、諸候同士の武力のぶつかり合いは起らなくなります。その理由は、元々は諸候の家臣に過ぎなかった貴族達が生産力の向上で力をつけて、団結すると、時として主君を凌ぐ力を持ったからです。彼等は、対外戦争には関心がなく、もっぱら国内の勢力争いに明け暮れたので、戦争が起きない方が都合が良かったのです。

 

紀元前546年には、超大国であった楚と晋の間で、弭兵(びへい)の会が行われ、長期の停戦期間が誕生します。この時代は貴族の台頭により、それまで下層階級として、歴史に登場する事が無かった、晏嬰(あんえい)や子産(しさん)、羊舌肸(ようぜつきつ)というような人士が勢力を伸ばそうとする貴族に登用され、浮かび上がっていきます。

 

それは、血縁ではなく能力で地位が決まると言う新しい時代の幕開けでした。

 

春秋時代、呉越の戦い

 

一方で、楚の東の長江流域では、呉と越という二つの国が出現します。両国とも、歴史は長いのですが、史書に出現するのは、紀元前6世紀です。呉は、呉王闔閭(こうりょ)と息子の夫差(ふさ)それに名臣として知られる、孫武(そんぶ)や伍子胥(ごししょ)の活躍で勢力を伸ばし、越は、越王句践(こうせん)や名臣范蠡(はんれい)が登場して覇権をめぐり、長い抗争を繰り広げます。

 

当初は、父の復讐に燃える呉王夫差が、伍子胥の補佐を得て、句践を破り、中原の超大国の晋と覇者の地位を争っていましたが、敗れた句践は、注意深く夫差の警戒心を解かせ、伍子胥を遠ざけて自殺させ最期には、呉を滅ぼして覇者になります。しかし、句践の越も呉を滅ぼした後はパッとせず、国力を低下させていき、紀元前306年頃までに楚により滅ぼされます。

 

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晋、魏・趙・韓に分裂し春秋時代終わる

 

越王、句践は、紀元前465年に死去します。それから、12年後、紀元前453年には、超大国だった晋が、国内の貴族だった三卿(さんきょう)、魏、趙、韓により分裂させられます。これが戦国時代の始まりであり、春秋時代の終結です。

 

当初は周王朝の没落から、諸候同士の激突に移行して始まった春秋時代は、終わりには、諸候の家臣であった貴族達による本家の乗っ取りによって幕を降ろします。大国であった斉でも、亡命貴族の田(でん)氏が、斉本家を凌いでいき、紀元前386年に田和(でんわ)によって斉は簒奪され、太公望から続いた姜(きょう)姓の斉は滅亡し、田氏の斉が興りました。

 

春秋戦国ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

約300年に及ぶ春秋時代をざっくりと紹介してみました。こうして、戦国七雄が出そろい時代は戦国時代へと突入して行く事になるのです。本日も悠久の春秋戦国時代に乾杯!!

 

—熱き『キングダム』の原点がココに—

春秋戦国時代

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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