春秋戦国時代、未だ統一された事のない中華は500年の争乱に明け暮れていた。というのは、キングダムで有名なフレーズですが、何と言っても500年、その間の歴史を追うのは、好きな人でない限り大変ですよね?
ということで、はじさんでは、500年の春秋戦国時代を、春秋時代、戦国時代に分けて、ざっくり紹介しようと思います。
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この記事の目次
春秋時代の始まり、紀元前770年
紀元前770年、暗君として有名な周の幽王(ゆうおう)が褒姒(ほうじ)という美女に夢中になり元の妃であった申(しん)后と皇太子の宜臼(ぎきゅう)を廃して、褒姒を妃に立てました。それに、申后の父である申侯(しんこう)が立腹して異民族である西夷(せいい)、犬絨(けんじゅう)を味方に引き入れて、幽王を殺してしまいます。これを春秋時代の始まりとします、それまで絶対の存在だった周が異民族の犬絨や西夷ごときに滅ぼされた事で、権威は失墜します。
分裂した周を一本化した鄭(てい)の武公(ぶこう)
周は西周とそれに反発した諸侯が担ぐ東周に分裂します。戦いは、東周に軍配があがり、申后の子である平(へい)王が即位しました。この戦いで大きな功績を立てたのが鄭の武公です。同じく姫(き)姓で王家に繋がる鄭は、中位の諸候でしたが、周の危機を救ったという功績を誇って横暴に振る舞います。
平王は、武公に救われた弱みがあるので黙認したまま死にますが、次に即位した桓(かん)王は、武公の跡を継いだ荘(そう)公が周に挨拶にこない事を怒り、陳(ちん)蔡(さい)虢(かく)衛(えい)の四カ国を率いて、鄭を攻撃しますが、荘公に負け敗走します。この時、荘公の家臣は「さらに追撃しましょう」と言いますが、荘公は
「いや、天子の軍を追い詰めるのは良くない」と引き上げました。
喧嘩相手に情をかけられたマダオな周の桓王・・
ぶざまです!自分で喧嘩を売っておいて敗れ、さらに相手に
「可哀想だから、逃がしてやろうや・・」と言われてしまうなんて!!
いかに、弱っているとはいえ、中堅クラスの鄭に負けた事で、諸候は内心、周を侮るようになり、周の権威だけを利用して時代の覇者が天下に号令する時代になります。
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鄭は凋落、代わりに斉(せい)が覇者になる
鄭は、荘公の死後には、パッとしない君主が続き没落します。代わりに勢力を伸ばしたのは、太公望(たいこうぼう)を建国の始祖とする西の斉でした。斉は海に面していて、土地も広く、早くから貨幣経済が発達していました。内紛を勝ち上がった16代の桓(かん)公が、名宰相、管仲(かんちゅう)の補佐を得て、没落した周王朝に代わって諸候をリードするようになります。
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桓公、南の楚と激突してこれを降して覇者に
同じ頃、南方では楚が、周辺の諸国を併合して勢力を伸ばしていました。楚の勢いは長江を越えようとしていて、弱小国は、楚を恐れるあまりにその配下になってしまう有様でした。一方で、楚に反発する諸候は、斉の桓公を頼り結集します。桓公は、これら諸国を率いて、楚と戦い撃破しました。楚は、周王朝に封建されていない独自の国でしたが、ここで、一度、勢力を落し長江の南に引っ込みます。紀元前651年、桓公は葵丘(ききゅう)において諸候を集めて会盟を行い、中国史上最初の覇者になります。
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